秋丸機関の全貌
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大東亜戦争に突入する2年前、陸軍内部に戦争準備のため密かに経済謀略機関が作られた。いわゆる「秋丸機関」でその中心人物が秋丸次朗主計中佐(えびの市出身)であった。この機関は戦争遂行の為作られたものだが、英米の経済力の調査結果、到底勝ち目がないとの結論が出た。しかし当時の情勢から、調査結果は闇に葬られ、太平洋戦争へと突入していく。 秋丸次朗は戦後もこの件については沈黙を守り、やっと昭和54年、後世に伝えるためと書き記したが、戦後50年を経るまで、公開されなかった。この間の事情はあとがきに述べているが、「秋丸機関の顛末」は経済謀略戦にたずさわった当事者が残した唯一の証言である。 |
秋丸機関の顛末(秋丸次朗著) |
あとがき(敗軍の将兵を談ぜず) |
解説(歴史にもしもはない) |
70年後の秋丸機関 |
軍国主義の旗のもとで(有沢広巳著) |
秋丸機関関連秘蔵写真 |
秋丸次朗の経歴とエピソード |
英米合作経済抗戦力調査報告書(抜粋)=其の一 |
英米合作経済抗戦力調査書=其の二西日本新聞掲載 |
関連新刊の紹介 |
[秋丸機関の顛末] 秋丸次朗著
経済戦準備の発端
昭和14年9月、関東軍参謀付として満州国経済建設の主任を担当していた私は陸軍省経理局課員兼軍務課員へ転任を命ぜられた。当時、満州国では産業開発5カ年計画に基づき、日満一体の国防経済の一翼を担い、重工業開発のため鮎川義介の主宰とする日産コンツェルンの満州移駐を図りつつあった。これがため鮎川を総裁とする満州重工業開発会社を創建しつつあった。私は内面指導の立場から満州国当局のバックアップに専念していた。したがって、このたびの転任は当然陸軍省にあって、引き続き満州国の仕事を命課されると思い、急いで赴任した。
東京着の翌日、さっそく三宅坂の陸軍省に出頭し、軍務局軍事課長 岩畔豪雄大佐に着任の挨拶をした。岩畔大佐(後に少将)は陸軍切っての実力者で軍政の家元と言われる人物である。大佐は開口一番「貴官の着任を待っていた。新任務についてここでは詳しい話も出来ないから外に出よう」と言う事で同行した東福清次郎中佐(経理局課員、鹿児島出身の後輩、後にビルマで戦死、主計少将)と共に麹町宝亭(洋食屋)にいった。ここで昼食後3人は密談に入った。
岩畔課長は大きな目を輝かしながら情熱を込めて語るのであった。「我が陸軍は先のノモンハンの敗戦に鑑み、対ソ連作戦準備に全力を傾けているが、世界に情勢は対ソだけでなくすでに欧州では英仏の対独戦争が勃発している。ドイツと近い関係にあるわが国は、一歩を誤れば英米を向こうに回して大戦に突入する危惧が大である。大戦となれば国家総力戦となることは必至である。然るに、わが国の総力戦準備の現状は、第1次世界大戦を経験した列強のそれに比べ寒心に耐えない。企画院が出来て国家総動員法は施行されたが、総力戦準備の態勢はいまだ低調である。そこで、陸軍としては独自の立場で秘密戦の防諜、諜報活動をはじめ、思想戦、政略戦方策を進めている。しかし、肝心の経済戦についてはなんに施策もない。貴公がこの度本省に呼ばれたのは、実は経理局を中心として経済戦の調査研究に着手してもらいたいからである。すでに活動している軍医部の石井細菌部隊に匹敵する経済謀略機関を創設して欲しい」と言うことであった。私は、事の意外と責任の重大さに戸惑ったのである。
経済戦研究班の結成
内命を受けたが、全ては秘密裏に行わなければならない。予算も手足となる人員も相談相手もなく独り暗中模索で途方にくれた。経理局の片隅に一脚の机と椅子を借り方策を講ずるほかない有様であった。
時の経理局主計課長、森田親大佐、高級課員、遠藤武勝中佐も事態を心配し、まず相談相手として加藤鉄矢氏(退役主計少佐、元満州国官吏)を推薦し、若干の予算も配当された。渡りに舟で力を得て、事務所を九段偕行社の一室に構え研究班の編成に着手した。そのうち川岸茂文主計大尉、山科松雄陸軍属官の2名が配属となり、必要な事務員も募集して事務機構も20数名に達し、事務室も狭隘になったので15年正月早々麹町2丁目の川崎第百銀行支店の二階を借用して移転し、いよいよ本格的な活動に入った。
研究グループの組織
経済戦の真髄も武力戦と同様、孫子の兵法「敵を知り、己を知れば百戦殆(あやふ)からず」と考えた。仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合して最弱点を把握すると共に、我が方の経済戦力の持久力を見極め、攻防の策を講ずることが肝要であった。
この基本的調査のためには学者グループの動員が先決であった。そこで苦心の結果、有沢広巳氏(東大教授・休職中)を中心に英米班、独伊班に武村忠雄氏(慶応大学教授)、南方班に名和統一氏(元サイゴン駐在の正金銀行員)、ソ連班に宮川実氏(立教大教授)、日本班に中山伊知郎氏(東京商大教授)をそれぞれ主査として委嘱し、この他国際政治班に蝋山政道氏(東大教授)、木下半治氏(教育大教授)を起用した。これらの班毎に主査を中心とする研究グループを結成した。
これらの面々は当時の学会においてもっとも進歩的学者と目されるメンバーであった。その証拠には、終戦直後吉田茂首相が内閣を組織するに当り、第一番に目星をつけたのが東大教授に復帰した有沢広巳氏(注1)で、経済安定本部長官に懇請したが、固く辞退して受けなかった。その他の人たちも戦後の経済再建に多大の貢献をしておられる。
これらの研究班と併行して、戦略的個別調査のため各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子をはじめ、各界にわたるトップレベルの知能を集大成することに成功した。
東條陸相に睨まれる
研究班の体制が整い活動が緒についた頃、一般政財界の我が機関に対する注目が強くなった。満州国における関東軍のように内地でも陸軍が日本の経済界を牛耳り、統制経済体制に移行するのではないかと言う疑念が起こったのである。それまでは、研究班の名称を陸軍省戦争経済研究班としていたが、このような疑念を避けるために陸軍省主計課別班と変名したり、外部には単に秋丸機関と称してその内容を糊塗するなど苦心が多かった。
その上にさらに厄介な事件が起こった。最有力メンバーの有沢教授が例の第2次人民戦線事件に連座、治安維持法違反容疑で起訴釈放の身分であることが問題となった。このことは私は最初から承知の上で依頼したのだが、検察当局から苦情が出る。右翼関係から抗議がくる。世間一般からも陸軍の赤化と騒がれる。喧し屋の東條陸相が黙っているはずがない。経理局長を通じて再三注意があった。一度は大臣に呼ばれ、首覚悟で行ったが、森田主計課長の配慮で私は室外で待機、課長一人が入室して釈明に当たられたので事なく済んだこともあった。
その後も、憲兵隊からは毎日ほど偵察にやってくる。世間からは喧しく言われるので、仕方なく苦肉の策をめぐらし、表向きは解嘱の形を取り、陰の人として密かに研究を続けてもらった。また、部外に煙幕を張るため青山の陸軍需品廠構内に事務所を移し地下に潜って任務の遂行に邁進した。
無視された調査結果
茨の道を歩みつつも、16年7月になって一応の基礎調査が出来上がったので陸軍省の幹部に対する説明会を開くことになった。当時欧州で英仏を撃破して破竹の勢いであった独伊の抗戦力判断を武村教授(当時、召集主計中尉として勤務中)が担当し、ついで私が英米の総合武力判断を陰の人、有沢教授に代わって説明した。
説明の内容は対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後二年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は耐えがたいと言った結論であった。すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては都合の悪い結論であり、消極的平和論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知るものにとっては薄氷を踏む思いであった。
開戦の阻止の努力むなし
野村大使の対米交渉の難航を補佐するため、16年4月末から渡米した岩畔軍事課長がちょうどその頃帰国し、現地で入手した米国の経済調査報告書を持参した。それによれば、日米経済戦力の総合判断を10から20対1程度と断定していて我々の調査結果と符節を合することが明らかとなった。
そこで、平和推進派の岩畔大佐(注2)に進言して、16年8月下旬にかけて政府、大本営連絡会議に対し委細説明して開戦に対して慎重なる考慮を促したが、ついに9月6日の御前会議において第一時帝国国策遂行要領を決定、開戦の道を開くことになった。
支離滅裂となった秋丸機関
16年12月8日、運命の大東亜戦争は大河の決するところ、このような阻止の動きもむなしくついに勃発した。経済戦の本命はこれからであった。ところが開戦直前の私は大本営陸軍部の野戦経理長官部部員に命課され、研究班長を兼務することになった。その後、対支法幣工作など経済謀略に奏効したが全面的に経済戦略を展開するにいたらなかった。
それも17年夏から南太平洋方面の連合軍の反抗が本格化し、ガダルカナル島の攻防に戦勢不利となり、これに対する軍需補給に忙殺され、経済戦略などに手が回らなくなり、研究機関もついに閉鎖のやむなきに至ったからである。
そこで、基本調査の分野は当時活動を始めたばかりの総力戦研究所へ、謀略活動は中野学校(秘密戦士の養成機関)へ移し、また貴重な文献図書は陸軍経理学校研究部へ保存を託した。機関の要員はそれぞれ原所属に復帰させ、残余の者は解散した。
かくて私は最後の始末を済ませた17年12月末、比島派遣第16師団経理部長に転出を命ぜられ、福岡雁の巣飛行場から爆撃機に搭乗して南方戦線に飛び立った。
(注1)有沢教授は昭和16年7月、一審の判決で禁固2年執行猶予3年となったが、控訴して二審で無罪となった。
(注2)岩畔大佐は、野村大使の対米交渉を成立させるために渡米、陸軍でも平和派と目されたが、開戦前に南方派遣の近衛連隊長に左遷された。戦後は京都産業大学世界問題研究所長を務め「戦争史論」など多くの著書を残している。
「敗軍の将は兵を談ぜず」という諺がある。世俗には失敗した者はそのことについて再び意見を述べる資格がない、という意味に使われる。だが、出典に寄れば史記<准陰候伝>の中の「敗軍之将、不可以語勇」に基づく。つまり、敗軍の将は負け惜しみや自分の自慢話などしてはならない。黙々としてその責任を負うべである、という武人の心得を教示する言葉であると思われる。
私は、もとより軍隊を指揮する兵科将校ではなく、軍政に携わる経理部将校に過ぎないが少尉任官以来25年の軍籍にあって、その後半は軍中枢部の軍政機務に参画し、敗戦素因の一端を負担すべき地位にあった関係上、敗軍の将と同様に、兵を談ずる資格はないことを自覚して、今日まで軍隊生活のことは黙して語らずと言う姿勢を守ってきた。
しかし、大東亜戦争もすでに30余年を経過し、満州事変に遡れば半世紀近くの歳月が流れ、今や、現代史として語られる位置付けとなった。したがって、戦記物や軍人の回顧録なども続々出版され「日本軍は斯く戦えり」と言う実相も明らかになりつつある。特に最近出版された今村均陸軍大臣著「私記・一軍人60年の哀歓」や岡田酉次主計少将著「日中戦争裏方記」を読んで、やはり自分も軍人として果たした役割を忌憚なく記録して残すことも後世の為に何らかの価値あることを痛感したのである。
たまたま、本年1月8日、NHK教育番組、パーソナル現代史「有沢広巳・戦後経済史を語る」の中で、開戦前に関与した秋丸機関について放映されたのをきっかけに、家族の者すら初めて事の真相を知った次第で、各方面からもなおくわしい話を知りたいとの要求も出てきたので、せめて我が経てきた軍歴の事どもを記録して、子々孫々や特にお世話になった方々に呈せんものと決意して敢えて筆をとることにした次第である。
本稿を起案した昭和54年1月には、開戦前後から終戦に至る体験を叙述する腹案であった。ところが、2月末になって、突然病魔に倒れ約3ヶ月余の闘病生活に入ったので、最初の計画を変更して、開戦前後に局限して記述することにした。したがって、体験記としては極めて不徹底とならざるを得ない結果となった。
(昭和54年6月25日稿=写真は執筆当時の秋丸次朗)
父次朗が亡くなったのは平成4(1992)年8月23日である。その前年の12月3日、NHK教育テレビのETV特集「新発見 秋丸機関報告書」が放映された。これで秋丸機関の存在とほぼ全貌が明らかになった。それまで主計大佐の旧軍人であることは知られていたが、軍部の中枢にあり大東亜戦争の開戦にかかわる秘密機関に参画し、戦争は負けると予測していた事とその事実を黙して語らなかったことに多くの人が驚き、賞賛した。
しかし、一部のマスコミでは「戦争を阻止しようとした反戦軍人」「敗戦を予測しながら開戦を阻止出来なかった」などと言う見方もあった。それは、本人の本意とするところではなかったと思う。軍政機務に携わる者として忠実に任務を果たしたといえる。調査研究は、当時、新進気鋭の学者を動員し、正確に世界情勢を把握しようとした。参画を渋る有沢教授に「陸軍に迎合するようなことはしなくて良い」と言って口説いたことにも現れている。結果は、経済力で英米に太刀打ちできないと言う結論を導き出している。そのことが正しかったのは歴史が証明している。
秋丸機関を創設した時より2年を経過し、戦局は逼迫していた。軍部は冷静に調査結果を受け入れる余裕を失っていた。むしろこうした事が当時の時局に合わないとの判断だった。だが開戦後も「2年間は持久戦に耐ええる」と本人は「経済戦の本命はこれからだ」と意気込んでいる。敵側の経済生活を破壊や妨害して武力戦の遂行に打撃を与える謀略戦を描いていたと思われる。それも、急激な戦況不利で発揮するに至らなかった。これらは好戦的であったというよりも軍人としての任務に忠実だったと言えよう。
生前「もっと要領よく立ち回って、御用学者でも集めればよかったのに」と意地悪な質問をしたことがある。それに対し「いや、日本には戦争経済という概念がなかった。学問的に確立する必要があった。そのためには新進気鋭の学者を起用したのだ」と生まじめに答えた。
秋丸機関の実態が明らかになった時「あの報告書が受け入れられていれば日本は変わったのに」と多くの人が言った。本人はそれを言ったところで言い訳になるだけだと軍人としてのプライドが許さなかったのだろう。「歴史にもしもはない」と清く敗戦の責任の一端を負い沈黙を続けた。
戦後、故郷の飯野町長を二期勤め、えびの高原の観光開発や農業振興に力を注ぎ、晩年、社会福祉協議会の会長を20年あまりつとめ、福祉問題に尽力した。それは、阻止にしろ遂行にしろ戦争と言う国家的事業で果たせなかった思いを胸に秘め、故郷の発展や福祉に尽力したのではないかと思う。
(秋丸信夫)