70年後の「秋丸機関」

秋丸機関はなぜ開戦直前に「英米との経済差は20対1」と云う報告書を出したのか。
軍幹部はなぜ敗戦必至の報告書を受けながら無謀な開戦に踏み切ったのか
70年を経て日米開戦の真相に迫る

 昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃に始まる日米開戦から平成23(2011)年12月8日は70年にになる。開戦50年の平成3年、開戦直前に米英抗戦力経済調査をした「秋丸機関の」の報告書が見つかりNHKが「新発見 秋丸機関報告書」を放映して話題になった。その調査機関の班長だった秋丸次朗が書いた「秋丸機関の顛末」も脚光を浴びさまざまなメディアが取り上げた。我がHP「えびの便り」でも「大東亜戦争秘話 陸軍経済謀略戦 秋丸機関の全貌」を掲載、各方面から問い合わせや取材申し込みがあった。

 そして20年たち日米開戦70年になり、1月に日経新聞が企画で取り上げ、英米との経済格差が20対1とした報告書を無視して開戦に踏み切った歴史を踏まえ、現在の政治状況に投影し、現実を直視せよと警告する趣旨だった。また最近、東京の出版社光文社の週刊誌「FLASH]が特集を組んだ=写真=また東京新聞新聞社会部から取材の申し込みがあった。電話で取材の打ち合わせをする中でこれまで知らなかった「秋丸機関」に対する考査や評価が行われてきたことを知った。それは私にとって新しい発見である。

 摂南大学経済学部の牧野邦昭講師の著書「戦時下の経済学者」によると秋丸機関の報告書に対する陸軍の反応について「経済学者の専門知に基づく研究が無視されたと非難するのは簡単であるが、問題はそれほど単純ではない」としている。陸軍が秋丸機関を組織した意図は客観的に調査した上で「どのように敵の弱点を突くか」の戦略が出る事を期待していた。英米との経済格差の大きいことは陸軍でも認識しており、戦争をするかどうかの戦略レベルの判断は軍が行うとしていた。しかし出された報告は経済分析に重点が置かれ「持久戦は困難」と結論付け陸軍の意図とはずれていた。

 また東京大学教授で秋丸機関にも参加した脇村義太郎氏(故人)の「学者と戦争」=日本学士院紀要第52巻、第3号=によると「もし岩畔さんがそのまま第一課長でいたならば、恐らく秋丸さんのように国策が決ってから報告することはなかったろう。秋丸さんはタイミングを見極めるだけの能力がなかったと思うのです。そのためせっかくの結論が生かせなかった」という。岩畔豪雄大佐は陸軍軍務局第二課長・軍務課長で各種の謀略・情報収集の人材を育てる陸軍中野学校の創設に関与、戦争における謀略、情報の重要性を強く認識していた第一人者だった。経済戦争の調査研究のため「秋丸機関」を創設したのもそのためだった。岩畔課長は「戦争回避論者」であり、そのため昭和16年2月に日米交渉にあたっていた野村吉三郎大使の補佐役として渡米した。それにより秋丸機関のかじ取り役が居なくなった。いわば梯子を外されたことになる。

 当時秋丸次朗は43歳、満州から内地に転勤して2年余り。経済調査機関の創設の命を受け、乏しい人脈をたどって人材集めに奔走する。起用した中には左翼事件で保釈中の東大教授などがおり「アカ将校」のレッテルを貼られ、調査は極秘のうちに進めねばならなかった。その上、機関創設の後ろ盾立てを失ったのだから、時局を見極め陸軍幹部に報告するタイミングを図る余裕などはなかったのではないか。

 秋丸機関の調査報告書が陸軍幹部に説明されたのは、秋丸次朗によると昭和16年の7月、米英班の主査だった有沢広巳東大教授によると9月。その間複数回開かれた可能性もある。いずれにせよ9月6日の国の最高決定機関・御前会議で「10月上旬までに日米交渉で日本の要求が受け入れられない場合は開戦する」と「帝国国策遂行要領」が決められており、杉山元参謀総長が「調査は良くできているが、結論は国策に沿うものではない」としたのは当時の状況下では当然と言える。

 陸軍としては米英と経済格差か大きいがどんな経済戦争、謀略戦を行ったらよいか調査研究するために秋丸機関を創設した。しかし集められた新進気鋭の学者たちは経済分析に重点を置き、謀略戦略の部分はわずかしかない。学者の集まりであるから当然と言える。機関を創設した岩畔大佐はすでに転出して、調査・研究の軌道修正はできなかった。さらに「米英討つべし」の機運は盛り上がっており、これに反した調査結果が焼却を命じられ幻の調査書に終わったのも必然的結末だったと言える。

 しかし秋丸機関の存在を知った海軍は同じように敵国の経済状況を探る機関を作ろうとした動きがあり、海軍でも存在の重要性は認識されていた。昭和20年8月15日にの終戦の決断は、米英との経済格差の大きさを知る陸軍が大きな影響を与えたと指摘する学者もいる。秋丸機関に携わった有沢広巳、中山伊知郎、脇村義太郎など多くの経済学者が戦後経済復興の経済理論の牽引車になったのは明らかだ。

 秋丸次朗は「敗軍の将、兵を語らず」と戦後も長く沈黙を守り、秋丸機関の存在は知られなかった。80歳を超え「軍人として果たした役割を記録に残すのは何らかの価値がある」と「秋丸機関の顛末」を書き残した。書かれたのは事実のみで、感想や評価、批評などは一切ない。敗戦の負け惜しみや自慢話などしない武人の心得だったのだろう。関係者はすでに鬼籍に入っており、戦後わずかばかりの著作が残っており、当時の事情を知ることができる。70年たってもそれを引き継ぎ経済学者や研究者が様々な論評、考査、解明を行っている。それは報告書の持つ歴史的意義の大きさと事実を解き明かす価値があるからだろう。