タルスキーの真理概念

ポーランドの数学者タルスキーは命題が真であるということのスキーマを次の様に定義している

「雪は白い」という文は雪が白いときそのときに限って真である。

真であるという述語は、主語に実際の物ではなく「文」をとる。「『雪は白い』は真である。」とは言うが「雪は真である」とは言わない。上の定義によると、「雪は白い」という文が真であるのは、雪が白いと言う事実と同値な関係のときに限るのである。これは雪が白ければ「雪は白い」という文が真となり、雪が白くなければ「雪は白い」という文が偽となるという関係である。記号論的な言い方をすれば、「雪が白い」という記号表現が真であることはその記号内容と同値なのである。タルスキーの定義の利点は雪が白いという事実と「雪が白い」という言明のあいだの関係を厳密に定義できると言うことである。事実と言明の関係が整理されることで、真理に対する形式的な取り扱いに厳密さを与えることができる。これを記号で表すと次のようになる

「雪は白い」は真である ⇔ 雪は白い

ところで、上の定義では『「雪は白い」は真である』という文の記号内容と、「雪は白い」という文の記号内容が同値であることを主張している。しかし、「雪は白い」という文(記号表現)が真であるのは雪が白い事実(記号内容)と同値なときであり、『「雪は白い」は真である』という文(記号表現)が真であるのは「雪が白い」は真であるという事実(記号内容)と同値である。したがって上の定義は「『雪は白い』は真である」という文と「雪は白い」という文が同値であることを意味しているとも考えられる。これは簡単な真理表で確認することができる。

最初の定義は記号表現である文と現実の記号内容との同値性を表しているが、それを読みかえた二番目の定義は文と文との関係である。これは『「雪は白い」は真である』という文と「雪は白い」という文が同値であることを示している。この定義は真と言う述語の意味を文と文の関係として捕えており、真と言う述語を記号表現のみから定義することができる。つまりこの言語は真と言う述語を自前で持つことができるわけである。真と言う述語を自分の言語で定義できる言語を「閉じた言語」と言う。

上に述べた方法で真と言う述語が定義できれば、その言語の文のうち真である文のみを集めた真理集合 T を作ることができる。この真理集合を利用すると、色々な述語で言及される語の集合を定義することができるようになる。ある述語 H と 主語 x を使って作った文 H(x) が真のときその語 x が集合 H の要素であると定義するのである。たとえば H = "犬である" という述語だったとすると x = "チワワ" のとき H(x) は真である。また x = "ペルシャ猫" のときは文 H(x) は真ではない。このように、あらゆる語を述語 H でテストすることによって H = "犬である" という述語を充足する語の集合 H を作ることができるのである。これを記号化すると次のようになる。

H(x) ∈ T ⇔ x ∈ H

また、主語も述語も語の1つであるから x(x) のような対角式という文も考えることができる。これは主語と述語がおなじ文で「『赤い』は赤い」のような文である。これは真ではないが、「『三文字』は三文字」は真である。そこで述語 G を次のように定義する。述語 G は、対角式が真ではない文の集合を定める。

x(x) ∈ ~T ⇔ G(x) ∈ T

ところで、x には任意の語を代入できるから x に述語 G を代入すると

G(G) ∈ ~T ⇔ G(G) ∈ T

となって、パラドックスになってしまうのである。G = 「対角式が真でない」という述語を使った対角式 『「対角式が真でない」は対角式が真でない』という文はそれが真でなければ、定義から真でなければならなくなる。真であるという述語を自前で持っている「閉じた言語」ではパラドックスを避けることができないのである。したがって、ある言語の文が真であるかどうかはメタ言語をつかって判定されなくてはならない。どんな言語もそれ自身の文が真であるかどうかを言及する述語をそれ自身のうちに持つことはできないのである。

また、そうであったとして、何故このようなことが起きてしまうのだろうか。それは、記号が記号表現と記号内容からできているため、ひとつの G という記号が G という記号表現と G という文の集合である記号内容という二重の意味を持つことになるからである。ところが、文としてこれを表現した場合 G(x) の x に G を代入した場合と、x(G) の x に G を代入した場合全く同じ文 G(G) になってしまうのである。したがって、対角式 G(G) では G(x) の x に G を代入して作られた文と、x(x) に G を代入して作られた文が全く同じ文になってしまうため、同じ文が真であれば真ではないというようなパラドックスを発生してしまうのである。

記号は記号表現と記号内容からなっている。記号表現と記号内容との関係は本来は恣意的なものであるが、真理についての定義のように、記号表現と記号内容が論理的な関連性を持っている場合がある。このような場合、記号表現間の syntax 的な関係が、記号表現と記号内容の間の semantic な関係とも絡み合ってパラドックスを発生してしまうのではないだろうか。

タルスキーの真理述語のおかしな振舞

タルスキーの真理述語の定義は明確なので、真であると言う述語がパラドックスを引き起こすのは不思議な気がする。しかし、真であるという述語は結構おかしな振舞をするのである。たとえば、

雪は白い ⇔ 「雪は白い」は真である

で、雪は白いが真であれば、「雪は白い」は真である、従って「「雪は白い」は真である」も真である、さらにこのことから、「「「雪は白い」は真である」は真である」も真な文である。これを記号表記すると次のようになる。

雪は白い ⇔ 「雪は白い」は真である ⇔ 「「雪は白い」は真である」は真である ⇔ ...

このようにたった1つの「雪は白い」という文から無限に真な文を作りだしてしまうのである。それは記号内容と記号表現が同値であるために、雪が白いという記号内容が真であれば、「雪が白い」という記号表現が真になる、そうして「雪が白い」が真であるという記号内容から、「「雪が白い」は真である」という記号表現が真になる。このような記号内容と記号表現との連鎖から際限なく真な文を生成してしまうのである。

この真理述語の奇妙な性質は、ラッセルの集合の述語の「自分自身を要素として含まない集合」とも似ている。「自分自身を要素として含まない集合」というのは長いので、これを R として略記すると、犬の集合という1つの集合から、無限に R を充足する集合を作りだしてしまう。これを、記号で書くと次のようになる。

犬の集合は R である → { 犬の集合 } は R である → { 犬の集合, { 犬の集合 } } は R である → ...

犬の集合は R を充足するので、犬の集合を要素とする集合を作ってみる。すると、作られた { 犬の集合 } がまた R を充足してしまう。そこで、それを新しいメンバーとして集合 { 犬の集合, { 犬の集合 } } をつくると、これもまた R を充足する。このように再帰的に際限もなく R を充足する要素が作られてしまうのである。R を充足する要素で集合を作ると言う操作と不可分に R には含まれていないが R を充足する要素を発生させてしまうのである。

真理述語も、ラッセルの集合の述語も、たった、ひとつの要素を出発点にして、再帰的に無限に自分を充足する要素を作りだすことができるのである。これを見ても真理述語が普通の述語ではないことが分かる

パラドックスを引き起こす述語の性質

ラッセルのパラドックスのような論理に関するパラドックスは、述語の性質によって発生するのではないだろうか。つまり、或る種の述語は、その述語の記号表現を加工した主語を述語と組み合わせた文を作ることで、その文(記号表現)の記号内容が矛盾を引き起こすようにすることができるのではないだろうか。パラドックスを引き起こす述語の例を列挙してみよう。

  1. 「対角式は嘘である」の対角式は嘘である
  2. 「対角式が証明不可能」は対角式が証明不可能
  3. 「対角式が真ではない」は対角式が真ではない
  4. 「自分自身を要素として含まない集合」の集合は自分自身を要素として含まない集合

これらの述語には、一体、どのような共通点があるのだろうか。

上の1から3の命題の述語は主語に文をとる。そうして対角式という仕組みで「嘘である」、「証明不可能である」、「真ではない」という主語を否定する述語に対する主語が自分自身の文となってしまう。結局、「この文は嘘である」というパラドックスと同じ形になって、文を解釈するとそれ自身の文を否定する仕組みになっているのである。

このように、文の解釈がそれ自身を否定してしまうという自己言及性のメカニズムの中心となるのが対角式である。「対角式が真ではない」という述語 G の定義は次のようになる。

x(x) ∈ ~T ⇔ G(x) ∈ T

上の定義の x に G 自身を代入した G(G) はパラドックス文になる。

G(G) ∈ ~T ⇔ G(G) ∈ T

ここで述語 G は集合を表していると考えられるから、上述の定義は次のように書き換えても同じ意味を持たせることができる。

"x ∈ x" ∈ ~T ⇔ "x ∈ G" ∈ T

ところが、これは次のラッセルの集合 R の定義と全く同じ型式なのである

x not ∈ x ⇔ x ∈ R

したがって、主語に文をとる例文1〜3と、主語が集合である例文4のみかけの相異にも関らず、これらのパラドックス文は全く同じ構造をしているのである。すなわち、自己言及文 "x ∈ x" を用いて集合 R を定義することで、x に R を代入したときにパラドックス文 "R ∈ R" を発生させるのである。

意味論的パラドックス、論理的パラドックスを問わず、パラドックスと言うものはこのように記号論的な問題なのではないだろうか。記号表現が自分自身ではない記号内容を表すという記号の特徴がパラドックスの原因となっている気がする。つまり、記号表現が解釈されることによって生じる記号内容が、同じ記号表現の記号内容を書き換えてしまうという現象である。この際に、真理述語のように記号表現と記号内容を論理的に関係づけてしまう特殊な述語の性質がパラドックスの発生に重要であるような気がする。

パラドックスの真理表

パラドックス文 A には全て次のような関係がある

A ⇔ ~A

この複合命題は A の真理値が「真」か「偽」かはっきりと分かるときは、簡単な真理表で恒偽命題であることが分かる。それでは何故これがパラドックスになってしまうのだろうか。問題は A の真偽を定めるのに上の定義を手掛りにする事しかできないと言う事である。そこで A が真であると仮定して、A の解釈や推論をすると、~A が結論になるのである。これが背理法と異なるのは、A を偽と仮定してもその仮定が否定されるからである。真でも偽でもないパラドックス文とはどういう仕組かと言うと、これは、上に述べたように記号論的な性質と考えられないだろうか。つまり、文 A という記号表現を解釈して記号内容を求めたときに、その記号内容が文 A の真理値を書き換えてしまうと言うことである。

また、パラドックスは論理的に扱いの困る異常な文と考えるよりも、記号が記号表現と記号内容で構成される限り起こり得る両者の相互作用の1つと考えた方が良いかも知れない。実際、自分自身を要素として含む集合のようなものも、現実にモニターとビデオカメラを向き合わせることで実現可能である。また、コントロール信号が入る度に、出力の1・0が変わるフリップフロップのようなものもパラドックスの1つの現れではないだろうか。記号論理学といえども記号表現と記号内容という記号論的な性質から免れることはできない。パラドックスは記号表現と記号内容のありふれた相互作用の1つなのである。

リンク

THE SEMANTICS OF TRUTH AND THE FOUNDATION OF THE SEMANTICS Alfred Taski, Published in Philosophy and Phenomenological Research 4 (1944).