記号論的読解法

ソシュールの記号論では語の意味は、その語の表すものが他のものと似ていないか、似ているかという事でしかない。つまり語と言うものは、色々なものを持ってきたときにそれがその語に属してるか、属していないかの判断しか提供しない。概念というしっかりした実体があって、それに語と言うラベルを貼っている訳ではないのである。この「語は万物の尺度」的な考え方は文書の読解にも生かすことができる。

おおよそ読書と言うものは概念を学習するためのものである。読解できなかったり誤読したりするのは、この概念の学習に失敗した場合なのである。しかし、概念が似ているか似ていないかの尺度でしかないなら、つぎのような簡単な工夫で誤読を防ぐことができる。それは、概念を表す語の下に、その語に属するものと属さないものを左右に分けて表記するだけである。例として「一般言語学講義」の引用をしてみよう。

ところで、言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば、それは言語活動(langage)とは別物である;それはこれの一定部分にすぎない、ただし本質的ではあるが。それは言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である。言語活動は、全体として見れば、多様であり混質的である;いくつもの領域にまたがり、同時に物理的、生理的、かつ心的であり、なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする;それは人間的事象のどの部類にも収めることができない、その単位を引きだすすべを知らぬからである。

これに反して、言語はそれじしん全一体であり、分類原理である。言語活動のなかでそれに首位を与えさえすれば、ほかに分類のしようもない総体のうちに、本然の秩序を引き入れることになるのである。

明らかにこの部分は言語(langue)を説明した部分であるから、冒頭に言語(langue)を置くことにしよう。そうしてその下に左に言語(langue)に属している部分の説明、右に言語(langue)に属していない部分の説明を書きならべてみると次のようになる

言語(langue)

言語活動の一部分(ただし本質的)

言語能力の社会的所産

言語能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体

それじしん全一体であり、分類原理である

言語活動事実のなかでそれに首位を与えさえすれば、ほかに分類のしようもない総体のうちに、本然の秩序を引き入れることになる

言語活動(langage)

言語活動は全体として見れば、多様であり混質的である。

言語活動はいくつもの領域にわたり、同時に物理的、生理的、かつ心的であり、なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする

それ(langage)は人間的事象のどの部類にも収めることができない、その単位を引き出すすべを知らぬからである

これを見ると、言語(langue)は言語活動(langage)とは異なること。言語活動の一部分であるが、言語活動の本質的な部分であること。言語活動をおこなうための社会団体の規約の総体で、分類原理であること。それは言語活動の中心的な存在であり、総体として確固とした構造と秩序を持っていることがわかる。

上の例では表形式で表したが、手書のノートなどでは、キーワードの下に横線を引き、横線の中央から垂線をおろして、似ているものと違うものを分けるような T 字型の線で句切をつけると簡便である。

方法とも言えないような簡単な方法であるが、概念を習得するときに、その概念に属するものと、属さないものとを対比させるだけで随分分かりやすくなるものである。