記号論その2

コミュニケーションの媒体としての記号

記号論の起原は言語学、認識論であり、言葉というものが何であるかというのが興味の中心であった。言葉は人間と人間の情報伝達の担い手であり、それだけでなく、人間がこの世界をどう組織化して認識するかということの重要な道具でもあるのである。また、情報の媒体は、言葉に限られるものではなく、色々な印、身ぶり、音声もその働きを担っている。さらには自然現象も自然の秘密を担っているという意味で情報の媒体なのである。これら全てを記号として抽象化することによってそれらの現象についての共通の仕組を考えることが出来る。

明らかに言葉の役割は、送り手の脳の中にある考えを受け手へ伝えるという役目を果たしている。キャッチボールの場合のように送り手からボールという物を受け手に送る場合は直接それを手渡すだけで用が済む。しかしながら、送り手の考えを受け手に伝える場合、送り手の脳の中にある考えを直接受け手の脳の中へ写すことは出来ない。送り手は自分の考えをまず言葉の形に符号化(encoding)し、受け手はそれを復号化(decoding)して自分の脳の中の考えに変換しなければならない。そのさいどうしても必要になるのはこの符号化・復号化を規定する変換規則あるいはコード(code)の存在である。このコードが送り手と受け手の間で異なっている場合言葉による伝達は不可能である。それは言語の異なるもの同士が互いに自分の言葉でだけ意志を疎通させようとしても不可能なことからも明らかである。

このようにコードを利用して送り手が発した言葉が受け手に伝わるとき、言葉は記号(sign)としての作用を持つことが出来るのである。このばあい記号としての言葉はふたつの不可分な要素をもっている。言葉そのものとしての記号表現(signifier)と言葉によって表現されている記号内容(signified)である。目に見える実体の代用としての固有名詞などの例外を除いて、一般に記号表現は五感で感じることが出来るが、記号内容の方は目には見えず、手で触ることも出来ない。後者は受け手の脳の中に形作られる組織化した情報なのである。

理想的な情報伝達の場合、送り手の情報は厳格なコードによって厳密に符号化された記号表現に変換され、その記号は受け手にノイズをまじえずに伝達される。受け手はその記号表現を同じコードによって全く正確に情報に復号化する。これは、コンピュータ同士や周辺機器との通信で見られる現象である。この場合伝達される記号表現と情報という記号内容とは一対一対応する。

人間同士の情報伝達の場合、機械のように厳格な一対一のコードを持っていることは余りない。言葉の場合は、同じ記号表現に異なった記号内容が割り当てらる多義性がある。さらに、あたえられた記号表現の表面的な意味のほかに、それとは別の意味が暗喩的に盛り込まれている場合がある。このような場合受け手はコードと同時にコンテキストを利用しなければならない。コンテキストとは送り手と受け手が共有する文化あるいは言葉が発せられた情况であり、このコンテキストが曖昧なコードを補い受け手が送り手の情報を推定するのに役立つのである。コードとコンテキストは本質的には同じような働きをしているが、コードが記号に対して直接的な解釈を提供するのに対し、コンテキストは間接的で、解釈の自由度も高い。

このように記号による情報伝達は完全にコードに依存する自由度の低いものから、コードよりもコンテキストに負うことが多い自由度が高く受け手の解釈に依存するものの間の様々なバリエーションがあるのである。

また、これらの記号による情報伝達の極端な例として送り手不在の情報伝達もある。例えば「リンゴの落下を見て、万有引力を考える。」というような場合である。これはリンゴの落下をみた受け手が受け手のコンテキストで万有引力がリンゴにも月にも等しく働いていることを考えつくのである。このような送り手不在の記号については、医師が患者の症候から病気を推測する場合や、探偵が床に落ちていた一本の髪の毛から犯人をつきとめるなどの例を挙げることが出来よう。この場合は記号による情報の伝達というよりは、受け手の推論と言った方がよいかもしれない。

しかし、記号による情報伝達の受け手の側の重要性は上のような極端な場合に限られないのである。送り手と記号と受け手の存在する通常の情報伝達の場合も記号の復号化については全く受け手の作業に委ねられている。実際、記号の符号化・復号化に重要なコードとコンテキストを送り手と受け手が共有しているかどうかは受け手と送り手の双方向のコミュニケーションがない限り保証することが出来ない。

記号の意味作用

前節で述べたように、記号表現の方が物理的には直接的に認識できるけれども、多くは、直接的に認識できない記号内容のほうが重要なのである。しかしながら、記号表現なしで記号内容を代表させることはできないし、記号内容のない記号表現は意味がない。記号表現は記号内容と不可分のものとして両者で記号を形成するのである。したがって、記号(表現)の最も重要な性質は、それが、自分とは違うものを指し示す標識のようなものであるということである。一般的な表現を使うと、記号とその意味の関係である。例えば探偵にとって、「五十代の男」とは「容疑者」であるかどうかと言う記号内容の記号表現でしかないのである。「五十代の男」という語はそういう人物の記号表現であるが、その人物自体も容疑者という「意味」の記号表現なのである。

記号表現は複数の人に共通に認識可能なので、ある意味客観的な存在である。しかし、記号内容の方は本質的には記号表現を利用する主体に個人的なものであって主観的なものなのである。なぜなら、記号内容はかれの脳の中の組織化された情報であり、その実体がどの主体についても同じと言う保証は全くないからである。つまり、主体が記号表現に記号内容を対応づける、あるいは意味付けをすることで記号を生成する記号過程は、本質的にその主体に主観的な操作なのである。

したがって、記号内容が客観性を持つためには、記号表現が同じように客観的なコードやコンテキストと関連づけられていなければならない。記号表現と記号内容の関係が私的なものにとどまる限り、それは幻覚のようなもので、客観性を持つことは出来ない。記号表現がコードという知識構造の中の特定の位置を占めることによってはじめて、記号内容は客観性を持つことになるのである。

しかしながら、コードやコンテキストははたして純粋に客観的なのだろうか。純粋に客観的な記号表現だけによって、コードやコンテキストを記述できるのだろうか。英英辞書で単語の意味を調べると、最終的には同意語の循環になってしまう。コードが記号表現と記号内容との対照表のようなものである限り、コードも主体の主観性から免れるわけではないのである。

このように記号過程は基本的に主体にとって主観的なものであるが、送り手と受け手の相互作用を通じてコードの共有が出来る場合、コードの客観化がおきてくることになる。例えば「犬」という記号表現に対して最初はふたりの主体の間で記号内容が異なるものであったとしても、「犬」という記号表現を共有しているうちに、両者の相互の伝達の過程で記号内容のすり合わせが起きてくるのである。そうすると、逆に「犬」という記号表現が主体の主観的な記号過程を拘束し方向づけるという事態が発生する。コードが主体の記号過程を支配する逆転現象がおきてくるのである。こうなるとコードは十分に客観的な存在となり、コードの構造を分析することによって、主体の記号過程の特性を映しだすことが出来るようになる。つまり、客観的存在である言語を分析することによって、主体の記号過程を拘束する「文化」を分析することができることになるのである。

記号と構造

理想的な情報伝達の場合のように、記号表現と記号内容が一対一対応していれば問題は簡単であるが、実際には記号表現には複数の記号内容が対応する多義性が見られることが多い。「犬」というひとつの言葉にたいして動物を指したり、スパイを指したり、愛すべきペットの代名詞になったりと、様々な意味が賦与されている。この記号の多義性の取り扱いが記号学のひとつの重要な関心事である。この単独の言葉の多義性はその言葉が文章の位置や背景のコンテキストのとどのように関連しているかと言うことから確定的な意味が決定される。記号論ではこれを記号の意味は記号体系全体の構造によって決定されると考えるのである。

また個々の単語の意味にしても、その単語だけで成り立っているわけではない。たとえば「犬」という言葉は、犬と言う動物があってその実体に、「犬」というラベルを貼っているわけではないのである。「犬」という言葉の意味は「猫」や「狐」や「狸」との対比によって成り立っている。「狐」や「狸」という言葉がなければ狐や狸を「犬」という言葉で表すかも知れないのである。「犬」という言葉で代表される概念はハッキリとした境界を持っているのではなく、それは「犬である」か「犬でない」かの判断のみを提供するのである。まさにプロタゴラスの言う「人間は万物の尺度」なのである。人間の住む世界は様々な実体的な概念の集まりではないのである。それは本来連続的なもので実体も境界もない。その混沌とした世界を「犬」という記号で分節して記号内容が形作られるのである。従って、この記号内容は流動的で、他の言葉との関連によってのみその意味作用を発揮するのである。

このように記号の意味は記号の全体系の構造のなかで決定されているのである。電子部品としてのコンデンサは単体としては、静電気を蓄積するだけの働きしかないが、それが、電子回路と言うシステムに組み込まれたときには、交流のフィルターの働きを示したり、情報の記憶をつかさどったり、多彩な役割を果たすことになる。

記号と記号構造との関係は、推理小説を読むと良く分かる。断片的な証拠は読者に提供されているが、それらがしかるべき文脈の中に配置されるまで読者は真相を知ることができない。最後に探偵が真相を説明するときはじめて個々の証拠の意味が分かり、証拠の間の意外な関係にびっくりさせられて面白いと思うのである。記号論の先駆者といわれるアメリカの哲学者パースが、探偵顔負けの推理力を示したと言うのは有名な話である。

このような記号の構造は自然発生的に生じたものではない。記号表現と記号内容の対照表であるコードは人間の社会的なコミュニケーションによって形成されたものなのである。したがって、我々は言葉を用いることによって知らず知らずのうちにその言葉を発達させた文化の拘束を受けることになる。それを自覚しないと、記号表現と記号内容の関係が動かしがたいもののような錯覚を起こしてしまうのである。たとえば、地図と実際の地形は完全に一致することはない。地図は地形を表しているが、実際の地形とは異なるものなのである。人に「共産主義者」というレッテルを貼ることによってその人本来の性質を見ようとはしなくなるのである。このような記号の構造による主体の思考の拘束に気がつけば、このような単純化の仕組をこえた真実にたいする感覚を持つことができる。

統辞論(syntactics)

記号は記号表現と記号内容によって成り立っているが、複数の主体で共有できるのは記号表現だけである。そして、記号表現の構造は、記号内容の構造を反映しているのである。そこで、客観的な存在である記号表現のみの構造について研究しようとするのが統辞論である。言語学ではおおむね文法論にあたる。原則的には記号内容を考慮せず、記号表現同士の構造のみを問題にする。記号内容を問題にしないので、純粋に客観的な記号表現の構造を考えることができる。

意味論(semantics)

記号表現と記号内容の両方を考慮に入れた構造を研究する。記号論の本来の目的と言っても良いだろう。記号内容の構造は客観的とは言いがたいが、記号表現(の構造)に反映される。記号表現を手掛りに記号内容の構造を分析するが、統辞論だけでなく、あらゆるコードやコンテキスト、背景知識なども用いられる。記号論そのものの性質と言うよりは、記号内容の性質によって分析方法や結果がまるで異なるので、1人の記号論者に1つの記号論が存在すると言われる。あえて、共通な記号論的な特徴があるとすれば、「記号表現は自分とは異なる記号内容を暗示している。」という事くらいだろう。

記号論の考え方

以上が記号論の基本的な考え方であると思われるが、このような考え方をすることでどんな利点があるのだろうか。ひとつは記号論的な考え方によって、記号の客観性と主観性に敏感になることができると言うことである。すなわち、文章自体という記号表現は客観的なものであるが、その意味つまり記号内容は本質的には著者の主観的なものであると言うことである。また、それを読み取る読者の理解も本質的に主観的なのである。それでは、どうすれば両者の理解をすり合わせて、文章の記号内容としてのメッセージを客観的なものにすることができるかと考えたときに、記号表現と記号内容とコード、記号の構造などの記号論のフレームワークが役に立つのではないだろうか。

もうひとつの記号論の働きは、「そう見えることが、本当にそうであるとはかぎらない。」ということを明らかにしてくれることである。我々はメディアや自分の体験から、この世界や社会について様々な意見を持っている。それらは自身の脳のなかに形作られた記号のシステムなのである。そうして、それが間違っているのではないかと考えることは余りないだろう。しかし、記号論的な反省をすることで、それらがそう確実ではないこと、違った文脈の中ではまったく思いもかけない意味があらわれてくることに気づくのである。このように健全な批判的精神を持つための道具を記号論は提供してくれるのである。


記号論を整理する


人間がどのように世界を理解するかという認識論に関係して記号論の重要性は言うまでもないことである。しかしながら、記号論に関する多くの言説がそれぞれ定義の異なる用語を使っているためにそれらを読み進めるときに混乱してしまう。したがって、記号論について述べる人は冒頭にそこで使われる用語の定義を述べておく必要があるのではないかと考えるくらいである。そこで様々な記号論の共通項と思われる概念を整理してみたいと思う。用語の定義は著者の恣意的な部分が多いが、ソシュールの用語を明確にするためだけである。後でソシュール本来の用語に還元するので新しい用語を定義する意図はない。

主観と客観

記号論は物理的存在としての記号と人間の脳の中に存在する記号の意味を研究する学問である。そこで、物理的存在としてあらわれる記号の全てを客観的なものと呼ぶことにしよう。なぜ客観的かは、音声言語であれ文字言語であれ、それらは複数の人間で共有できるものだからである。これに対し、個人の脳の中の活動としての記号の意味はこれを主観的なものと呼ぶことにする。個人の脳の活動は、外的にうかがい知ることができないものであり、他の人と共有することはできない。それゆえ純粋に主観的なものなのである。

記号表現と記号中心と記号内容

記号には三つの側面がある。物理的存在としての記号表現と、記号表現を知覚した主体の脳の中にパターン認識によって発生する「記号中心」と、その記号中心に連想によって結びつけられている様々の主体の脳の活動である「記号内容」である。たとえば、「いぬ」という音声(記号表現)は、主体によって犬と言う言葉(記号中心)であると認識され、その言葉に連想される様々な犬についての概念(記号内容)が想起される。このうち、記号表現だけが客観的であり複数の主体で共有される。記号中心と記号内容は主観的なものであり、原則として主体間での共有はおこらない。

記号中心の共有

このように主体間で共有されるものは記号表現のみであるが、実質上記号中心も共有されると考えて良い場合がある。それは、主体間の情報交換がある場合である。

幼児が犬と言う言葉を覚える過程は、基本的には教師付きのパーセプトロンのパターン認識学習の動作と同じである。犬に出会う度に、おとなが「ほら、犬だよ」というのを聞いて、発声する人の音色や発音の癖の違いにも関らず、それを単一の「いぬ」という単語であると認識するようになる。これにはふたつの重要な要件がある。ひとつは様々な音の「いぬ」(記号表現)と対象である犬が同時に提示されること。もうひとつは、個々の音の違いにも関らすそれを同じ「いぬ」という単語であると認識するしくみ(パターン認識)が脳に存在すると言うことである。これを主観と客観に分けて考えてみよう。客観的な「いぬ」という音(記号表現)と同時に犬の映像や音声情報やときには触覚の情報が主体に入力され、主体の主観のなかに「いぬ」という単語(記号中心)が形成されるわけである。

ではこの記号中心はどうすれば主体の間で共有されるのだろうか。それは、様々なバリエーションの記号表現が主体に同じものであるとして提示される事によってである。Aという主体が発声した言葉をAとBが同時に聞く。次にBが発声した言葉をAが同じものであるとBに対し認めることによってBは自分の発声がAの発声と同じものであると知らされるのである。ここで同じなのはAとBの音声ではなく、両者の聴覚映像(記号中心)である。Bにとってはこれは教師つきパーセプトロンのパターン学習の過程に他ならない。

一旦Bの学習が成立すると、AはAの発声とBの発声を聞いて同じ聴覚映像(記号中心)と判断し、BもやはりAの音声と自分の発声が同じ聴覚映像であると認識するのである。このようにAとBの音声(記号表現)についての解釈(記号中心)に共有が起きて来ると、「実質上」AとBは記号中心を共有していると考えて良い。しかし、全く同じ記号中心の共有がAとBの間で起きているわけではない。ただ、AとBが共有する記号表現の発声と知覚にたいしAとBが同じ解釈をするという、AとBの見掛け上の記号表現に対する入出力応答の一致が見られるときに、記号中心の共有を推測できるだけである。

記号表現と記号中心の同一視

記号中心が共有されるということは、主体間で共通の記号表現に対するパターン認識が起きているということである。したがって、記号表現の1つをとって、記号中心を代表させることができる。たとえば、「いぬ」という音や、「犬」という文字の記号表現で、記号中心である「犬という言葉の聴覚映像」を代表させることができるのである。そうなると、「犬という言葉の聴覚映像」である記号中心は、物理的な「犬」という文字として客観化(主体間の共有が可能であると言う意味で)することができるのである。すなわち、記号中心が主体の脳を離れて外在化したのと同じことになる。日常的な意味での「単語」とはこの外在化された記号中心に他ならない。さらに、記号中心の外在化、客観化が起きると、個人を越えて社会集団としての記号中心の集合を考えることができるようになる。個人の脳に存在する記号中心は限られているが、社会集団全体の記号中心の集合は個人の脳の記号中心をはるかに越える範囲に拡がっているのである。日本語とは個々の日本人の語彙ではなく、個人を越えた集団としての日本人の語彙なのである。

ところで、記号を扱う上でほとんどの場合は、物理的実体である記号表現は、共有された記号中心の代表であると考えて良い。したがって、わざわざ「記号中心」というような用語を導入しなくても記号表現と記号中心を同一視してもよい場合が多い。「オッカムの剃刀」である。

記号内容の共有

記号中心で見られたような共有は、記号内容についても見られる。記号内容が共有される過程も記号中心の場合と同じ教師付きパーセプトロンの動作と同じである。送り手と受け手の間で、「いぬ」という記号中心と、様々な犬の映像が共有される度に犬という動物の概念が形成されて行くのである。したがって、「いぬ」という記号中心が存在しなければ犬と言う概念が形成されることはない。また、送り手と受け手のコミュニケーションがなければ概念が形成されることはないのである。つまり、犬と言う実体がありそれに対して自然発生的に「いぬ」という記号中心が割り当てられるのではなく。主体間のコミュニケーションの結果として「いぬ」という記号中心とその概念である記号内容の共有が発生するのである。そうして、この共有が強固になるにつれ「いぬ」という記号中心が主体の記号内容を規制すると言う事態が発生する。記号中心と記号内容との関連は本質的に主観的であるにも関らず、それが客観化され主体の連想を規定するようになるのである。

記号中心と記号内容の共有のしくみは本質的には同じである。ただ、記号中心の共有が比較的安定で一対一対応になるのに対し、記号内容の共有にはゆれが大きくなりやすい。なぜならば、それらの共有は本質的に見掛け上のものであり、主体の記号表現に対する入出力応答の一致だけが唯一の判断基準であるからである。記号中心と違い記号内容は構造が複雑で柔軟性があり、それゆえ共有の度合いが減少する場合もでてくるのである。

例外は数学のように厳密な用語の使用がおこなわれる場合である。この場合は、記号内容の共有についても記号中心の共有のように厳密に一致させることができる。この場合には、記号中心の場合と同じように記号内容を記号表現で代表させることができる。

記号内容の共有は記号中心の共有に比べ、ゆるやかな類似しかもたない場合が多いが、それでも、記号内容における共有は記号による情報伝達に不可欠のものであり、記号のコードの中心をなしている。記号による主体と主体の情報交換は記号内容の共有があることが前堤なのである。主体の発声という記号表現は、別の主体に記号中心と記号内容として解釈されるが、そのさいに記号中心と記号内容の共有が、主体のメッセージの暗号化と復号化のためのコードとして利用されるのである。

ソシュールの用語

この辺で、ソシュールの「一般言語学講義」の用語の定義について考えてみよう。ソシュール独得の用語は講義でハッキリと定義されているにも関らず、それを引用した文献で微妙な食い違いがある。

さて、上に述べた議論では意図的に用語の定義を変えた。本来は主体の脳の中でおきる現象である記号中心と記号内容がコミュニケーションを通じて主体間で共有されること、また、記号表現は客観化された記号中心と同一視できることを強調したかったからである。

そこで、今度は、これをソシュールの本来の用語の定義と対応させてみよう。ソシュールは、記号がシニフィアン(記号表現、能記)とシニフィエ(記号内容、所記)という二面からなるとする。これはそれぞれ、上で述べた共有化された記号中心と記号内容にあたる。物理的実体である発声や表記としての言葉はこれをパロール(言)としてシニフィアンとは区別している。シニフィアンとシニフィエは表裏一体をなすもので、どちらが欠けても記号としての機能を有しない。記号表現は記号内容を指し示すためのものでそれ自身は意味を持たないが、記号表現がなければ概念と言う記号内容は発生し得ないのである。

さらに、シニフィアンはシニフィエという実体の単なるラベルではない。つまり、犬の集合と言う実体があってそれに対し「犬」というラベルを貼るということが起こっているのではないのである。人間が知覚する世界には実体としての境界はない。シニフィアンとシニフィエからなる記号を用いることによってその境界のない世界を分節化して犬という概念を創りだすのである。そうして、こうして分節化された概念には普通ハッキリとした境界がなく、ただ、同じか違うかと言う判断があるだけである。また、単語の意味は他の単語の意味との違いによってのみ浮彫にされる。「犬」という単語で表される動物は、「猫」や「狐」などとの対比によってのみその違いと同一性が現れるのである。

こうして混沌の世界から分節化された記号はまた、コミュニケーションによって、個々の主体を越えて社会集団で共有される。ソシュールは、この共有された記号の総体をラング(言語)として、言語学の対象となり得る客観的な実体であると定義する。ラングを形成するのは記号を操作することのできる主体の精神活動であるが、これはラングと違って客観化することが難しくこれをランガージュ(言語活動)と言って、ラングとは区別している。ラングはランガージュによって形成されたものであるがラングがなければランガージュと言う精神活動も存在し得ない。

また、ラングは独立な意味を持った記号の集まりではなく、個々の記号は他の記号との関係によってのみその意味が現れるため、全体として緊密な関係を持った記号の体系全体がラングなのである。ソシュールはラングのそのような性質をチェスにたとえている。チェスの駒の配置は他の駒との緊密な関係を持ちながら、全体としてまとまった局面を形成している。また個々の駒の価値は全体の局面の中でのみ決定される。たとえば、駒が破損した場合、簡単に新しい駒と入れ換えることができるのである。

このように表現するものと表現されるものの間の相互の緊張関係が記号を形成するのがソシュールの記号論の特徴である。さらに記号自身も単独で意味作用を持つものではなく、他の記号との関係性の中で意味を持ち、ラング(言語)は体系化された記号の全体として存在すると主張する。たとえば(講義にはない例えであるが)ラジオは個々の部品の総体であるが、個々の部品が全体の回路の中で適切に配置されてこそ機能を発揮する。また、コンデンサーという部品の働きの意味は、回路のどの部分で使われているかによって変わって来る。これらの特徴から、ソシュールの記号論は構造主義の嚆矢となったのである。

記号における文化的社会的なものの重要性

記号論の目的のひとつは記号の背後に隠された実体、絶対的真理を発見することであるが、記号過程は本質的にコミュニケーションによってしか発展しないため、社会の影響をうけない純粋な実体や真理を考えることは難しい。数学の真理のようなものも全く文化や社会の影響を受けないということはできないのである。

つまり、記号の意味は強く文化的社会的な影響を受けるのである。したがって、背景となる文化が異なる場合、おなじ現象に対して全く異なる意味付けをおこなっており、その差が理解不可能なまで大きいこともおこり得るのである。

このように真に共有できるのは記号表現のみである。また、記号表現と記号内容の関連は本質的に恣意的で多義的であり、記号の意味は全体のシステムの中の位置付けを考えないと不確かなものになる。また、記号と記号内容をの関連づけには、社会的な要素が不可欠であるという事も認識される。このため記号論は、単に記号の意味を探ると言う記号論本来の目的を越え、心理学や文学や社会学の分野にもその影響力を強めて行ったのである。

記号表現に記号内容を対応させる「意味付け」の操作は、主体間のコミュニケーションに多くを負っている。したがって、記号をめぐって、意味の齟齬など様々な問題が起きたとき、問題を一度コミュニケーションという観点から見直してみることが重要であると思う。