ラッセルのパラドックス

ラッセルのパラドックス

ラッセルのパラドックスはイギリスの哲学者バートランド・ラッセルが発見した有名なパラドックスだ。どういうパラドックスかというと、「自分を要素として含まない集合の集合」は自分自身を要素として含むかどうか決定できないということだ。

自分自身を要素として含まない集合の例としては「犬の集合」がある。「犬の集合」は色々な犬を要素として含むが、「犬の集合」という集合は要素としては含まない。普通に思いつく集合は自分自身を要素として含んでいないので、「自分を要素として含まない集合の集合」を考えることは簡単なように思える。

ところが実際はおかしなことが生じてしまうのである。つまり、「自分を要素として含まない集合の集合」が自分自身を要素として含んでいないとすると、この集合は自分自身を要素として含んでいないので、「自分を要素として含まない」という規定を満たしている。したがって、この集合は「自分を要素として含まない集合の集合」の要素である。つまり、「自分を要素として含まない集合の集合」は自分自身を要素として含むという推論ができる。逆にこの集合が自分自身を要素として含んでいると仮定すると、この集合は「自分自身を要素として含まない」という規定を満たしているはずであるから、自分自身を要素として含んでいないはずである。したがって、「自分自身を要素として含まない集合の集合」は自分自身を要素として含むとも含まないとも言えないのだ。

自分を要素として含まない集合の集合のおかしさ

「自分を要素として含まない集合の集合」は一見まともそうに見えるので上に述べたような推論は不思議に感じる。しかし、一見まともにみえるこの集合はそれほどまともでもないのである。

いま「自分を要素として含まない集合の集合」をつくるために、「自分を要素として含まない集合」である「犬の集合」と「猫の集合」をとる。ここで、「自分を要素として含まない集合の集合」をつくるための第1歩として「犬の集合」と「猫の集合」を集めて「犬の集合と猫の集合の集合」をつくる。すると「犬の集合と猫の集合の集合」それ自身もまた「自分を要素として含まない集合」である。そこで、新しく「犬の集合」と「猫の集合」と「犬の集合と猫の集合の集合」を集めて「"犬の集合"と"猫の集合"と"犬の集合と猫の集合の集合"の集合」をつくる。しかし、新しく作ったこの集合もやはり「自分を要素として含まない集合」である。また、この集合の任意の部分集合も「自分を要素として含まない集合」である。そこで、... と無限に「自分を要素として含まない集合」を作り出すことができてしまうのである。

たった2つの要素「犬の集合」「猫の集合」を出発点にしただけでも、際限なく新しい要素を生成してしまう。再帰的な定義と似ているが、自然数のように再帰的定義で要素が生成される場合でも、その要素はあくまでも自然数集合の枠内で生成される。しかし、この場合は作った集合の外に同じ内包的定義を満たす要素が発生してしまうのである。したがって、「自分を要素として含まない集合」全てを集めて集合を作ったとしても、その集合自身が新しい「自分を要素として含まない集合」になってしまうのである。

しかし、曲がりなりにも「自分を要素として含まない集合の集合」の要素の候補の例くらいはあげることができるわけだ。それでは「自分自身を要素として含まない集合の集合」の補集合である「自分自身を要素として含む集合の集合」の場合はどうなるだろうか。

自分自身を要素として含む集合のおかしさ

ラッセルの集合の要素である「自分を要素として含まない集合」は一見まともそうだったが、それでは、「自分自身を要素として含む集合」とはどんな集合だろうか。すぐには思いつかないが、例えは、「犬でないものの集合」はどうだろうか。「犬でないものの集合」は「犬」ではないので、「犬でないもの」という規定を満たす。したがって、「犬でないものの集合は」自分自身を要素として含んでいると言える。

しかし、「犬でないものの集合」を詳しく見てみると、自分自身を要素として含む集合とは言えないのである。いま、「猫」や「象」など「犬でないもの」を適当に集めて A という集合を作る。そうすると A 自身が 「犬でないもの」である。また A の作成法から A自身はその要素のひとつと一致することはないので、新しい「犬でないもの」であると考えられる。したがって可能な限り「犬でないもの」をあつめてきて集合を作ったとしても、その集合自身が新しい「犬でないもの」になってしまうのだ。つまり、「犬でないもの」の集合はそのなかに自分自身を要素として含んでいないにもかかわらず「犬でないもの」という述語の要件を満たしていると考えて良い。

それなら、ほんとうに純粋に自分自身を要素とする集合についても考えてみよう。たとえば次のように自分自身だけを要素とする集合 B を考えてみる。

B = { B }

要素 B と 要素 B だけを含む集合 { B } は別の物と考えられるので、上の式の B にどんな要素や集合を代入しても矛盾が起きるような気がする。また、この式からはたして集合 B の要素を確定することができるのだろうか。右辺の B にそれと等価な { B } を代入して行ったところで

B = {{{{{{{{{{{{{{{{{{{{{ B }}}}}}}}}}}}}}}}}}}}}

のように無限に剥ける皮を被ったタマネギのようになるだけで、右辺の B を消去して確定することはできない。したがって、「自分を要素として含む集合」は、これを果して集合と呼んでも良いかどうかさえ分からないのである。これを数学的な議論でどうとり扱うかは分からないが、自分自身を要素に含む集合を集合として考えることはできないのではないだろうか。「集合は全て自分自身を要素としては含んでいない。しかし、自分自身が内包的定義を満たしてしまう困った集合がある」と考えたほうが素朴集合論の実状に合っている気がする。

ラッセルの集合も「自分自身を要素として含む集合」?

実は「犬でないものの集合」にみられた性質は、ラッセルの「自分自身を要素として含まない集合」にも同じように適用できるのである。つまり、「自分自身を要素として含まない」という定義が、どのような集合を持って来ても、その要素とは違う「自分自身を要素として含まない」集合を発生させてしまう仕組みになっているのである。

すなわち、「自分自身を要素として含まない集合」を適当に集めて集合 A を作る。A は明かに自分自身を要素としては含んでいない。なぜなら、A が A を要素として含む場合は、A の要素としての A が「自分自身を要素としない」という定義に違反してしまうからだ。したがって、A は自分自身を要素として含んでいないのだが、まさにそれ故に、A もまた、「自分自身を要素として含まない集合」である。すなわち、A 自身が A の要素にはない新しい「自分自身を要素として含まない集合」なのである。

また、このことから、A の要素をどのように集めても、ラッセルの集合、すなわち、「自分自身を要素としない集合『すべて』を集めた集合」を作ることができないことがわかる。なぜなら、A の要素をどのように集めても A の要素ではない「自分自身を要素としない集合」である A が存在するからだ。それにもかかわらず、無理に「自分自身を要素として含まない集合(すべて)の集合」が存在すると仮定したためにパラドックスが発生していたのではないだろうか。

例えば、この集合 A の状態を命題で表すと次のようになる

「A は『自分自身を要素として含まない集合』を(全てではないが)集めた集合である。」 ∧ 「A は『自分自身を要素として含まない集合』である。」

つまり、A の状態を記述する命題は単一の命題ではなく、微妙に違うふたつの命題の論理積になるのである。はじめの命題は A の内部構造について述べており、後の命題は物としての A の性質を述べている。そうして、このふたつの命題は、集合 A を定義する際に不可分に発生するのである。

たしかに A の状態を記述する命題はふたつの命題の複合命題であるが、しかし、そこには何のパラドックスもない。ところが A の延長線上にある ラッセルの集合 R を記述する命題は次のようになってしまう。

「R は『自分自身を要素として含まない集合』全てを集めた集合である。」 ∧ 「R は『自分自身を要素として含まない集合』である」

この場合前半の命題と後半の命題は矛盾しており、ラッセルの集合 R のような集合を集合としては考えることができないことを示している。

このようなパラドックスが起こってしまうのは集合の定義というものが、必然的にその内部構造を定義する命題と、集合という物としての性質を記述する命題のふたつの命題を発生させてしまうからではないのだろうか。つまり、集合が定義されるときに「物の集まりとしての集合の性質と、物としての集合の性質のふたつの性質が同時発生し、その間に微妙なズレがあるのである。

ラッセルのパラドックスへの反論

したがって、ラッセルのパラドックスに対しては次のように反論できるのではないだろうか。「R を自分自身を要素としない集合の集合とするとき、R が Rの要素でない場合は R は R の要素である」という主張に対しては、「R が自分自身を要素としない集合を集めた(全てではない)集合である限りは、R が R に含まれることはない。また、R が自分自身を要素としない集合を全て集めた集合となることは原理的に不可能である」と反論できる。また「R が R の要素である場合には R は R を要素として含まない」という主張に対しては、「R が自分自身を要素としない集合を集めた集合である限り、R が R の要素となることは原理的に不可能だ」と反論できる。

ラッセルの集合のイメージ

ラッセルの集合をイメージにすると次のようになるのではないだろうか。すなわち、「自分自身ではないものが詰まったいろいろな箱を集めてせっせと1つの箱に詰めていて、ふと気がつくとその箱自体が自分以外のものを詰めこんだ箱だった。」ということである。そうして、こういう箱に、自分自身でないものが詰まった箱「全て」を詰めこむのは不可能なのである。

ラッセルの集合と全ての集合の集合

上の議論からだけでは、全ての集合は自分自身を要素として含んではいないと論証することはできないが、もし、全ての集合は自分自身を要素としてはいないとすると、ラッセルの集合「自分自身を要素として含まない集合全ての集合」は単に「全ての集合の集合」のことを述べているに過ぎないことになる。この場合も「集合を集めた集合」はそれ自身が集合であるから、「犬でないものの集合」やラッセルの集合の仲間である。したがって、全ての集合の集合を「集合」と考えて議論するとパラドックスが生じてしまうのである。

ラッセルのパラドックスが排中律をおかしくする

ラッセルのパラドックスは論理学そのものにも影響してくる。命題論理学では命題変数 A は真かまたは偽の値のどちらかをとると仮定される。述語論理学も命題論理学の拡張として考えられるわけだから命題関数 P(x) も命題変数 x に値を与えたとき、必ず真か偽の値をとると考えるのは自然である。ところが「x は自分自身を要素としない」という命題関数の命題変数に「自分自身を要素としない集合全ての集合」を代入した「自分自身を要素としない集合全ての集合は自分自身を要素としない」という文は、ラッセルのパラドックスを引き起こすので真も偽も与えることができない。これは記号化することもできる。述語 B をつぎのように定義する。

B(x) ⇔ ¬x(x)

このとき x に B を代入すると

B(B) ⇔ ¬B(B)

となって B(x) に B を代入した命題 B(B) は真の値を与えても、偽の値を与えても矛盾が生じてしまう。つまり、述語論理学(述語を変数にすることができる二階述語論理学の場合)では、命題が必ず真か偽の値のどちらかをとるということは保証されていない。(二階)述語論理学では排中律が成立しないのである。ラッセルのパラドックスが起きるのは「全て」という量化記号が自己言及が起きたときにパラドックスを引き起こすためである。したがって、(二階)述語論理学では「全て」という量化記号を無制限で使用するとパラドックスが起きてしまうことになる。(2003.5.30)