ラッセルのパラドックスによって明らかにされた素朴集合論の問題点については、公理的集合論にみられるように、その矛盾を排除するための様々な努力がなされてきた。しかし、なぜ素朴集合論には矛盾が生じてしまうのかについての考察はあまりみかけないような気がする。無論著者にそのような事ができるはずもないが、素朴集合論とは何かと言うことを考えると面白そうなのですこし挑戦してみたい。
「素朴集合論とは何か」という問いに対する答は、「集合とは物の集まりという物である」という定義に尽きるのではないだろうか。これは言い方を変えると、物と物との間に a ∈ A という元と集合の帰属関係を考えるということである。ここにはふたつの構成要素しかない。元または集合としての「物」と、物と物との関係としての「帰属関係」である。物を点で表し、点と点の帰属関係を矢印で表すことにすると、様々な点を矢印で結んだネットワークの全体が集合の構造の全体を表すことになる。
このような生の素朴集合のネットワークに論理的な法則を当てはめることができないのはラッセルのパラドックスで明らかである。公理的集合論の努力は論理が適用できる集合のネットワークを作るための条件は何かを見つけ出すことではなかったのだろうか。
さて、このような素朴集合のネットワークにはどのような性質があるのだろうか。素朴集合のネットワークでは、自分自身を要素として含む集合を考えることができる。そのような集合を表すには、自分自身の点から自分自身へむかう矢印を作れば良いだけだからである。そうするとこの素朴集合ネットワークに含まれる点全ては、自分自身につながる矢印を持つものと、自分自身につながる矢印を持たないものに二分することができる。これは全ての集合は自分自身を要素として含むか、そうでないかに分かれるはずだと言う直観とも一致する。
それではそうしてふたつのグループに分けた場合、そのグループ各々についてそのグループの点全てを要素として含む点(集合)はあるだろうか。つまり、「自分自身を要素として含む集合の集合」や「自分自身を要素として含まない集合の集合」があるかということである。自分自身を要素として含むグループの中にはそのような集合はありそうである。そのグループ内の全ての点から、自分自身を含めて一点に矢印を引くことができるからである。
ところが、自分自身を要素として含まないグループでは、そのグループ内の点を全て要素として含む集合はそのグループ内には見つけることができない。自分自身に矢印を作らないで、自分自身を要素としない点のグループ内の点全てから矢印をひくことはできないからである。どうしても自分自身が余ってしまうのである。
それでは自分自身を要素として含まない点全てから矢印を受ける点がそのグループ内にとれないのなら、自分自身を要素として含む点のひとつに矢印を引くことはできないだろうか。ところがそのような点を作ってみるとその点は自分自身を要素して含まない点になってしまうので、自分自身を要素とする点のグループには入れられなくなってしまうのである。結局自分自身を要素しない集合全ての集合を表す点はどこにもつくることができないのである。
これが、全ての集合は自分自身を要素として含む集合か、自分自身を要素として含まない集合かどちらかのはずなのに、自分自身を要素として含まない集合全ての集合を考えることができない理由ではないのだろうか。考え得る全ての物どうしの帰属関係を考えたときに、自分自身を要素として含まない集合の集合をあらわす点は作ることができないのである。
なぜこういう事が起きてしまうのかと言うのは、集合をひとつの物として考えるためではないだろうか。つまり、自分自身を含まない集合の集まりを集合として考えることによって、その集まり以外に集合という新たな物が発生してしまうのである。
物の集まりと物としての集合とは分けて考えなければならないような気がする。複数の物があれば自然にそれらの物の集まりを考えることができるが、その物の集まりを集合という物と考えることで、そこにそれまでになかった新しい「物」が発生するのではないだろうか。素朴集合論では元と集合との階層は考えず同様に物として扱うために、物の集まりと集合との微妙な差が生じてしまうのではないだろうか。物の集まりを自分自身を含む集合のグループと自分自身を含まない集合のグループの二つに分けることができても、自分自身を含まない集合のグループをまとめて集合という物にしようとしたときに、その集合という「物」をどちらのグループにも入れられなくなってしまうのだ。床屋のパラドックスに似た状況がおきてしまうのである。
ただ、元と集合の階層を厳密に区別するとラッセルのパラドックスは解消できるかもしれないがちょっと窮屈な感じがする。元も集合も等しく「物」と考える素朴集合論のほうが単純でダイナミックな感じだ。
このように一見直観と反するようなラッセルのパラドックスも、素朴集合のネットワークという観点から考えるとスッキリと理解できる。(2003.6.8)
集合をネットワークモデルで表すと、自分自身を要素とする集合の集合よりもっと奇妙な集合も考えることができる。それは自分を含む集合や、自分を含む集合の集合を自分の要素として含む集合である。これは、「自分自身を要素とする集合は集合とはみなさない」というルールでは排除できない。またこの調子で色々な奇妙なネットワークにフィードバックの見られる集合も考えることができる。そのどれを公理的に正常な集合として受け入れ、どの集合は排除するようにしたら良いのだろうか。集合を1つの物として要素と同等に考えるといろいろと悩ましい事が起こって来るようなのである。
上記のように素朴集合論は単純なネットワークモデルでモデル化できるように見えるが、はたしてこの素朴集合ネットワークモデルでラッセルの集合以外の全ての集合を表すことができるのだろうか。どうやらそれは悲観的なようなのである。
いまネットワークモデルの全ての要素を集めた集合を U としよう。U の要素から集合でない単なる元を除いたものの集合を S とする。先に述べたようにこの S はラッセルの集合は含んではいない。さて、この S で全ての集合を表すことができるのだろうか。
S の要素が全体として全ての可能な集合を表すことができるためには、少なくとも、S の部分集合全てをカバーしていなければならない。したがって、S と S の冪集合 2^S との間に最低でも一対一の対応が可能でなければならない。しかし、それは対角線論法で不可能であるので、残念ながら素朴集合ネットワークモデルでは全ての集合を表現することは不可能なのである。したがって、集合の概念で森羅万象を記述することは不可能なのである。
ゲーデルの定理によって、「集合」と「再帰的定義」という二つの武器を使って全宇宙を捕まえようとした壮大な試みは不可能であると云う事が分かった。ただ、自然数と実数の関係でもわかるように人間の知識も無限に向かってどこまでも発展し続けることは可能であるような気がする。