「論理的に思考しなさい」とか、「論理的な文章を書きなさい」とかよく耳にする。そこで論理を勉強しようと思って論理学の入門書を読んでみた。真理表のあたりは非常にわかりやすくて感激したが、実際にその知識を活用しようとするととたんに行き詰まってしまった。実際の文章にあらわれる文は、命題としての条件、すなわち、その文の内容について真偽を論議できると言う条件を備えていないものが多い上に、命題といえる文があっても、必ずしも論理的な推論の順番に並んでいない。
記号論理学の知識をそのまま機械的に一般の文章に当てはめるのは無理なようだ。ただし、命題の特徴である「その内容が真であるか偽りであるか議論できる」という性質は重要なので、文章を命題の形に整えてみることば有用だ。次の文はカレル・ヴァン・ウォルフレンの「人間を幸福にしない日本と言うシステム」からの引用である。
「この人生はどこかおかしい」と多くの日本の人が感じている。それはなぜか?
居心地の悪さを感じている人の数は、実際、驚くほど多い。そしてこの不満は、あらゆる世代、ほとんどの階層に広がっている。
これを命題に変えてみよう。命題は一般に「何が何だ」というような主部と述部をもつ文になる。例えば上の例の1行目を命題の形式にすると。
主部:多くの日本人が、述部:「この人生はおかしい」と感じている。
「それはなぜか?」は命題ではないので省略して、残りの2つの文を主部と述部に分けてみよう。
主部:居心地の悪さを感じている人の数は、述部:驚く程多い。
主部:この不満は、述部:あらゆる世代、ほとんどの階層に広がっている。
さらに修飾語を取り去って、簡潔な命題にすると。
多くの日本人が、(自分の)人生がおかしいと感じている。
多くの(日本)人が、居心地の悪さを感じている。
不満を(持っている人)は、ほとんどの世代と階層にいる。
さらに言うと「多くの日本人が、人生がおかしいと感じている。」と言うのは命題ではない。「多くの」という形容詞では基準が曖昧で、真偽の判定ができないからだ。「多くの日本人」と言う代わりに、「〜割の日本人」と言えば、真偽の判定が簡単かどうかは別として、命題と考えることはできる。ここで、仮に「多くの」と言う言葉が、「過半数の」に読み変えられると仮定しよう。また上の例の第1文と第2文は同語反復なので、第3の文も取り込んで著者の主張を1つの命題に要約すると、
全ての世代と階層の過半数の日本人は不満を感じている。
ということになる。
もちろん、著者はそういう途方もない主張から論旨を組み立てているわけではなく、日本の官僚と企業、報道による一種の愚民政策が市民の生活を圧迫していることに警鐘を鳴らし、情報開示と市民運動を通じてこの状況が改革可能であることを主張するための糸口として、一般市民の不満という切口をとりあげたにすぎない。しかし、「多くの」とか「大多数の」とか言う言葉は、自分の主張を正当化する場合によく使われる言葉である。注意する必要がある。このように、その文が果たして厳密に命題としての条件を整えているかどうを検討することは意味のあることだ。(2001.04.13)
含意は、PならばQという形の複合命題である。ソクラテスならば人間である。人間ならば死ぬ。ゆえにソクラテスならば死ぬ。という有名な三段論法で現れる。この形の推論はよく見かける。先程の「人間を幸福にしない日本というシステム」の第一章に出て来る「日本の個々の政治家は、金権政治の体質に直接の責任はない」という命題の推論を見てみよう。著者は
日本の個々の政治家は、「金権政治」の体質に直接の責任はない。彼らがつくりだしたわけではないし、変えるのが仕事だと思われているわけでもないし、変えたいと思っても個人の力では変えられない。「金権政治」を完全に追放した政治システムを考えることはできても、これほどの大きな仕事は一人の政治家の力ではとてもやれるものではない。だとすれば、平均的な政治家に対して「金権政治」の倫理的な責任を追求することはほとんどできない、ということになる。新聞は個々の政治家に責任があるかのように偽るのをやめなくてはいけない。
として、「金権政治の責任がひとえに政治家腐敗によるものであるとのステレオタイプな認識を改めて、実は官僚たちが金権政治をはびこらせているのだという事実に注目しよう」と主張する。
しかし、上の推論の政治家というところを、官僚と置き換えると、それはそのまま、「日本の個々の官僚には、金権政治の体質に直接の責任はない。」という命題の推論になってしまわないだろうか。
くりかえして言うが、私はこの本の著者の主張に反論を唱えようとしているわけではない。大筋の意見にはなるほどとうなづかされるものが多い。ただ、ここでは、論理学をどのように、一般の文書に活用することができるかを考えたいのである。私は論理学の専門家ではないし、論理学の内容についての誤解も多いと思う。しかし、論理学はもっと、一般の論説を精密に理解するためにも活用されなくてはならないのではないかと思っている。
本題に戻ろう。上の推論を扱いやすいように記号化すると、次のようになる。
∀x(xが政治家である⇒xは金権政治をつくり出してはいない。)
∀x(xが政治家である⇒xは金権政治を変えるのが仕事ではない。)
∀x(xが政治家である⇒xは金権政治を変えられない。)
∀x(xが政治家である⇒xは金権政治でない政治システムを作れない。)
*∀x(xが金権政治をつくり出していない⇒xは金権政治に責任がない)
*∀x(xは金権政治を変えるのが仕事ではない⇒xは金権政治に責任がない)
*∀x(xは金権政治を変えられない⇒xは金権政治に責任がない)
*∀x(xは金権政治でない政治システムを作れない⇒xは金権政治に責任がない)
各文の冒頭の∀xは「全てのxについて」と言う意味である。*のついている文は本文中にはないが暗黙に仮定されていると考えて補った。
4個の複合命題があるが、内容的には似たようなものなので、∀x(xが政治家である⇒xは金権政治を変えられない)、∀x(xが金権政治を変えられない⇒xは金権政治に責任がない)という2つの命題について考えれば良いと思われる。これは、簡単な三段論法(連鎖規則)で、∀x(xが政治家である⇒xは金権政治に責任がない)と推論することができる。
ここで問題にしないといけないのは∀x(xが政治家である⇒xは金権政治を変えられない)という命題である。P⇒Qという形式の命題について検討するにはその否定¬(P⇒Q)について考える方が便利である。これは真理表を作ってみれば分かるが、P∧(¬Q)と同値である。量記号も考えると∃xP(x)∧(¬Q(x))となる。この論理式の意味は「あるxがあってP(x)でかつQ(x)でない」である。つまりある政治家がいて、そのひとが金権政治を変えることができたら上の大前提は否定されることになる。したがって、全ての政治家は金権政治に責任がないという推論は否定されることになる。最近の市民運動から当選した議員の例を見れば分かるように、政治家は金権政治を変えられる。つまり、金権政治に責任がないとは言えないという結論になるのではないだろうか。
このように、論理が三段論法で展開しているときには、含意の否定を検討すると推論の妥当性について分かりやすくなるのではないだろうか。(2001.04.14)
論理学を散策すると色々なパラドックスがでてくる。これが楽しみのひとつである。「赤と黒」の著者であるスタンダールは数学者でもあった。ある日彼をこころよく思っていなかった人が、「お前は嘘つきだ。」という手紙を送った。そこで、彼はその人に「そのとおり。」という返事を書いたと言う。もし彼の「そのとおり」という言葉が正しければ、スタンダールはうそつきであるということになる。したがって彼の言った言葉「そのとおり」は偽であるから、かれはうそつきではないことになる。結局スタンダールはうそつきなのかうそつきでないのか決定できなくなってしまう。かれが、新訳聖書からとられた、「クレタ人が『クレタ人は皆うそつきだ』と言ったがそれは本当だ。」という「クレタ人のパラドックス」を知っていたことは十分あり得ると思う。
「アキレスと亀のパラドックス」も有名なので詳しい説明はいらないと思う。Google で「アキレスと亀」で検索すると山のように出て来る。アキレスと亀が競争する時、亀のスタート地点がアキレスよりも先であれば、アキレスの方が亀より速く走れても亀には絶対に追いつかないと言う議論だ。つまり、「アキレスが亀のスタート地点に到達したときには、亀はその時間で少し先に進んでいる。さらにアキレスがその地点に到達したときは、亀はやはり少し先に進んでいる。結局アキレスは亀に永遠に追いつけない。」と言う理屈だ。現実にはあきらかにアキレスはやすやすと亀を追い越して行くのだが、この理屈のどこがおかしいかを示すのは厄介だ。
実は、これは、物体の移動というものを、小さい移動の積み重ねと考えるところから来る錯覚なのではないだろうか。アキレスの移動距離は小さい移動距離を加算して行って得られるものだという発想が、混乱を招いているような気がする。
よく考えるとアキレスの位置は小さい移動距離の加算で決まるのではなく、単に時刻の関数なのである。アキレスの位置をA(t)、亀の位置をT(t)、とするとアキレスと亀の位置関係は、時刻tnで観測したときのA(tn)とT(tn)の大小関係で決まるのである。
ゼノンのパラドックスで採用される観測時刻をt0, t1, t2, ... とすると、それはアキレスと亀が並ぶ時刻tsに限りなく近づく無限数列になっている。しかし、無限に続けて行っても tn < ts なので、その観測系列を用いるかぎり、アキレスが亀に追いつくことを観測することはできない。しかし観測時刻の系列t0, t1, t2, ... を等間隔にとってやれば、アキレスが簡単に亀を追い越すのを観測できるはずである。
有限の時間の中に、無限個の(離散的な)観測時刻の系列を埋め込むことができる等比級数の不思議な性質を利用した議論であるが、観測時刻はts以上にはならないので、「永遠に」アキレスが追い付けないとは主張できない。したがって、パラドックスとはいえないのではないだろうか。(2001.04.14)
嘘つきのパラドックスというのがある。ある人が「私は嘘つきだ」と言ったとき、その人は「嘘つき」なのだろうか、それとも、「嘘つきでない」のだろうか。仮に、この人が嘘つきであったとするとこの人の言った「私は嘘つきだ」という言葉は嘘であるから、この人は嘘つきではないことになる。また、この人が嘘つきではないとすると「私は嘘つきだ」という言葉は本当だからこの人は嘘つきであるということになる。結局どちらの場合も矛盾が生じてしまうのである。
しかし、良く考えると嘘つきの人は「私は嘘つきだ」と言うことはできないのである。嘘つきは「私は嘘つきではない」としか言えない。また、嘘つきでない人の場合もやはり「私は嘘つきである」と言うことはできない。嘘つきであれ、嘘つきでない人であれ「私は嘘つきである」と言うことは不可能なのである。
そうは言っても、「ある人が『私は嘘つきである』と言った」という文は全く文法的に問題がない。言語表現の自由度の高さが、論理的に不都合な文まで許してしまい、パラドックスが発生してしまうのである。
有名な落語に「風が吹くと桶屋が儲かる」というのがある。風が吹いたのを見た桶屋が、「これで桶屋が儲かる」と喜んだと言うのだ。なぜなら、「風が吹くと埃が立つ。埃が立つとそれが目に入ったひとは、盲になる。盲が増えると、三味線の需要が増える。三味線の需要が増えると、猫が殺される。猫が殺されると、鼠が増える。鼠が増えると桶をかじるので、桶の需要が増えて桶屋が儲かる。」という推論ができるからだ。
この推論から分かるのは、推論に際して定量的な要素を考慮に入れることの重要性だ。風が吹いて埃が立つ確立をp1、埃が立って目に入る確立をp2、... としていくと、最終的な結論「桶屋が儲かる」確立は、p1p2p3p4p5p6となってほとんど0になるだろう。桶屋の推論はこれは変だとすぐ分かるから良いが、実社会においても案外定性的な推論だけで物事が決定されていることが多いのではないだろうか。
教育問題などでも、カリキュラムについて行けない生徒が増えると安易に内容をやさしく、履修時間を短くするという方策に傾きがちであるが、その際に子どもたちが具体的にどの教科のどのような内容につまづいていて、それにたいしてどう教え方を変えて行けばよいかということについての細かな提言がないように思う。また、審議会で改革案を提言した場合は、その提言がどのような効果をあげたかを確認するためのアセスメント・プログラム(たとえば、提言実行後1年目に、その効果を判定する調査方法をあらかじめ計画しておくなど)も併せて答申すべきなのではないだろうか。
第二次世界大戦のときに、アメリカ空軍は戦闘機の空中戦の戦果を分析して、主に未熟練者が撃墜されていることを突き止めた。そこで、戦闘の単位を4機単位とし、未熟練者は編隊に加わるだけで戦闘には参加させないようにしたところ、撃墜される飛行機の数が激減したという。教育改革も同じような細心さが必要なのではないだろうか。(2001.04.15)
一文の長さが長い場合字面をなぞるだけでなかなか頭に入らないことが多い。そんなときは文頭と文末だけを読むと自動的に要約ができるので便利だ。次の例は日経Linux 2001年5月号からの引用だ。
ソフトウェア・モデムでは、本来モデムのコア・チップが行う処理を、PCIモデムあるいはノート型PCに搭載するDSP(Digital Signal Processor)チップと、PC本体のCPUが役割分担して代行する。DSPチップは音声や画像などのデジタル信号をリアルタイムで処理を行う汎用的なプロセッサである。このDSPチップをモデムとして機能させるためには、DSPチップを初期化し、PC側からDSPチップをモデムとして機能させるためのドライバ(マイクロコード)をアップロードする必要がある。このため、ソフトウェア・モデムをモデムとして利用するためには、専用のドライバ・ソフトが不可欠である。通常ソクトウェア・モデムには、ベンダーによってドライバ・ソフトが用意され、たいていは、Windows用やMacintosh用ドライバ・ソフトが提供されている。従来、Linux用のドライバ・ソフトが提供されることはなかった。
技術関係の文章は正確に記述しようとするとどうしても一文が長くなる傾向がある。そこで、文頭と文末だけを読むと次のようになる。
ソフトウェア・モデムでは、... 役割分担して代行する。
DSPチップは、... 汎用的なプロセッサである。
このDSPチップをモデムとして、... アップロードする必要がある。
このため、... 不可欠である。
通常、... ドライバソフトが用意されている。
従来、... 提供されることはなかった。
これだけの情報でも、「ソフトウェア・モデムがDSPチップを利用しているために、ドライバ・ソフトが必要だが、従来は Linux には提供されていなかった。」ということはおぼろげながら分かる。こうやって、概略をつかんでからしっかりと読むと理解が楽になる。(2001.04.15)
天満美智子著「新しい英文作成法」(岩波ジュニア新書)によると、英語の単一パラグラフ(段落)の構造は、主題文(topic sentence)、補充文(supporting sentence)、締めくくり文(concluding sentence)、連結語句(signals)からなっているそうだ。主題文はそのパラグラフで言いたいトピックを限定する文で、通常ひとつのパラグラフには原則としてただ一つの主題を示す主題文がある。補充文は主題を補足説明する文で、通常複数個の文で示す。締めくくり文は、パラグラフの結論を述べたり、次につづくパラグラフへの橋渡し役をする。連結語句は、文相互の論理的関係を明示する語句だ。
このパラグラフの構造を利用すると、パラグラフの要約が機械的にできる。つまり、最初の一文と最期の一文だけを読めば良いのだ。前節で引用した例文で言えば、
主題文:ソフトウェア・モデムでは、本来モデムのコア・チップが行う処理を、PCIモデムあるいはノート型PCに搭載するDSP(Digital Signal Processor)チップと、PC本体のCPUが役割分担して代行する。
締めくくり文:従来、Linux用のドライバ・ソフトが提供されることはなかった。
となる。さらに、複数個のパラグラフから構成される文章(text)の場合も、主題部、補充部、締めくくり部という構成になっている。冒頭と末尾をおさえると言う方法はここでも使うことができる。(2001.04.22)
新しい概念を説明する文章では、概念の定義のあとに、2、3個の具体例を述べることが多い。これは、人間が新しい概念を理解しようとするときにアナロジー(類推)に頼る傾向があるからだ。
例えば、数学の基本概念に同値関係というのがある。集合Mの2元関係〜が次の3つの性質(E1)〜(E3)をみたすとき、これをMの同値関係という。
(E1) x〜x (反射律)〜がMの同値関係なら、x〜y のとき x と y は同値であるという。そして、x と同値であるようなMの元全体の集合をxの同値類といい、[x]で表す。すなわち
(E2) x〜y ならば y〜x (対称律)
(E3) x〜y, y〜z ならば x〜z (推移律)
[x] = {y∈M; x〜y}
である。白岩謙一著「線形代数入門」、サイエンス社より。
いかにも抽象的で難しそうな概念だが、Mを女子高のあるクラスの全員、〜をオトモダチ関係と読み変えると、意外と分かりやすくなる。つまり上の(E1)はx子はx子とオトモダチ。(E2)はx子がy子とオトモダチなら、y子もx子とオトモダチ。つまり、片想いはなくてオトモダチ関係は全て両想い。(E3)はx子がy子とオトモダチで、y子とz子がオトモダチならx子とz子もオトモダチ。すなわち、「オトモダチのオトモダチはオトモダチ」なのである。同値類[x]はx子のオトモダチグループだ。こうなると、「Mクラスはx子のグループ[x]、p子のグループ[p]、w子のグループ[w]に分かれてしまって、違うグループの子とは口も聞かないな。」ということも簡単に予想できる。実際、同値関係の性質
(a)[x]∋x
(b)[x]∋y,z ならば y〜z
(c)[x]=[y] かまたは [x]∩[y]=φ のどちらか一方だけが成立する
なども、次のように考えると簡単に納得できる。つまり、(a)はx子はもちろんx子グループのメンバーである。(b)はy子とz子がx子のグループ[x]のメンバーなら当然y子とz子は「オトモダチのオトモダチはオトモダチ」の法則からオトモダチだ。(c)はちょっと難しいが、仮に[x]∩[y]≠φとすると、x子とy子の両方にオトモダチのz子がいるはずである。[x]グループのメンバーをひとり誰でもいいからつれて来てu子とすると、u子は当然z子とオトモダチである。ところがz子はy子ともオトモダチなので、「オトモダチのオトモダチはオトモダチ」の法則からu子もy子とオトモダチだということになる。[x]グループのどの子を連れて来てもy子とオトモダチであるということは、[x]グループの子はみな[y]グループに含まれていることになる。すなわち、[x]⊂[y]である。同様に[y]⊂[x]も言えるから、[x]=[y]である。
上の(a)(b)(c)から、クラスMは「仲良しグループ」で類別(きれいに分割されてしまうこと)できることも証明できるが、ここでは省略する。このように、アナロジーを活用することで、抽象的な概念を理解しやすくすることができる。(2001.04.23)哲学の本を理解したいと思って何度か挑戦したがだめだった。哲学の本の分かりにくさは主に2つの点にあると思っている。ひとつは、著者以外の人の著書の引用や評論が多いため、それを読んでいないものには理解が難しくなるということ。ふたつめは、用語の使い方が個人的であるために、ある用語がどんな概念を意味しているのか著者の考えを推測しながら読まなくてはならないということだ。つまり、哲学の本では、本質的に個々の単語の意味が解りにくい。したがって、単語の意味がはっきりと分からないときは、よりなじみが深い文そのものの性質、特に接続語を手がかりにしながら文の構造に注意して読み進めるしかない。
次の文章は、ジャン・ピアジェ著「構造主義」、滝沢武久・佐々木明訳、白水社、からの引用だ。
構造固有の全体性の性格は、はっきりしている。というのは、すべての構造主義者たちが一致して認めている唯一の対立(前節で問題にした批判的意図という意味での対立)は、構造と集合体--すなわち、全体とは独立した要素から成り立っているもの--との対立だからである。たしかに、構造は、要素から成るが、要素は、体系そのものを特徴づけている法則にしたがっている。そして、この合成とよばれている法則は、累積的な連合には帰せられないのであって、要素の特性とは区別される集合の特性を、全体そのものに付与しているのである。たとえば、整数は孤立して存在しているのではないし、任意の順序の中で発見され、次に一つの全体に合併されるというようなものでもない。整数は、数列そのものに関係してのみ、あらわれる。そして、数列は、<群><体><環>等の構造的特性をしめしている。これらは、それぞれの数の特性とは明かに別物なのだ。数の特性の方は、偶数か奇数でありうるとか、素数かまたは n > 1 の倍数かでありうるといった特性である。
ほとんどお手上げの状態であるが、パラグラフの最初の文が主題文であると考えると、このパラグラフの主題が「構造固有の全体性」であることがわかる。しかし、この言葉だけからは、それが何を意味するのか曖昧なので、パラグラフの内容から推測しなくてはならない。パラグラフの冒頭と末尾を押えるという法則から、パラグラフの後半をながめると、「たとえば」という接続語が目につく。例示は主題の同語反復のことが多いので、とりあえずは、考慮に入れないことにする。
次に接続語に注意しながら第2文以下を読んで行く。第2文の先頭の「というのは」という接続語は第1文の内容の根拠を明かにするために第2文が記述されるのを示している。したがって主題「構造固有の全体性」の補足説明であると考えられる。そう考えて第2文をざっとながめると、「一致して認めている」とか「唯一の」とかいう形容詞が目につく。これらの形容詞が修飾しているのは、共に「対立」という名詞である。そこで、「対立」というキーワードに注目しながら読んで行くと、この「対立」が「構造」と「集合体」との対立であることが分かる。しかし、「構造の全体性の性格が、構造と集合体との対立だ」としても、曖昧さが解消された訳ではない。ただし、「集合体」は「全体とは独立した要素からなりたっているもの」と定義されている。ということは、「構造」とはこれに対し、「全体の性質が個々の要素に影響しているもの」と定義されるのではないだろうか。
第3文の接続語は「たしかに」だ。これは、「確かに...だが、実際は...だ。」というように、前半に相手の主張をのべ、後半でそれを否定する場合に使われる表現である。したがって、ここでは、「構造(において)は、要素は、体系そのものを特徴づけている法則にしたがっている。」というのが本当に言いたいことである。
第4文は、「そして、この合成とよばれる法則は、」で始まっているから、第3文の「法則」の補足説明である。すなわち、この「法則」は要素の特性ではなく全体(要素の集合)の特性である。
第5文以下の実例はあまり分かりやすいとは言えないが、個々の整数が整数全体(集合)のなかで特有な位置を占めていて、<群>のような構造的特性に束縛されていると主張しているように思える。
以上をまとめると、構造主義の立場では、全体を単なる個々の要素のより集まりであるとは考えず、要素の集合が特有の「構造的特性」を持ち、その特性が個々の要素を支配しているという観点(全体性)から分析を行うということだろうか。このように、概念を掴みにくい文章の場合、文章の構造を分析することによって、著者の意図を推測する方法もある。また、逆に、自分で文章を作成する場合も、できるだけ分かりやすい構造にして、文章を組み立てる必要があるだろう。(2001.04.28)
スキーマ(schema)とは、英語で、概要、図式という意味の単語である。認知心理学によると、人が新しい知識を既存の知識のネットワークに同化させるときに、スキーマ(図式)を利用しているそうである。たとえば、5w1h (when, where, who, what, why, how)、起承転結、原因と結果などのスキーマ(図式)に合う知識は習得が容易になる。
次の文章は、井上昌次郎著「睡眠の技術」KKベストセラーズからの引用である。
夢や急速眼球運動がおこる眠り
レム睡眠時には、その名の由来である急速眼球運動(Rapid Eye Movement の頭文字をとってREM=レム)や、骨格筋の無緊張と突発的な痙攣がおこる。脳は活性化された状態にあり、覚醒時に見られるような脳波が現れる。
レム睡眠時に、"夢"を見ることが多いのは、活性化が大脳皮質まで及ぶからだ。血圧や体温の不規則な上昇も生じる。だから、レム睡眠時は調和のとれた管理体制が作動していない状態に近い。
こんな欠陥だらけの眠りなのに、高等動物がこの古い型の眠りを温存しているのはなぜか。そして、レム睡眠は新たに付加価値を獲得したと言われるが、それは何か。
自然科学から見れば、生物は、もともと明確な設計思想の下に特定の目的を志向して作られてはいない。地球上にたまたま発生してしまったゆえに、何とか生存の活路を自力で切り開くほかなかった自然物なのだ。
生命体が地表の環境条件に適応して、ほぼ一日周期の活動・休息リズムを体の設計図の中にいち早くとり込んだのは、成功の第一歩だった。これが「生物時計」である。
また、休息期に筋肉の緊張を解いて、体を不動化させたのも正解だった。これがレム睡眠の原形だ。しかし、この休息技術が"開発"されたとき、恒温恒常の体内環境や巨大な大脳皮質は未熟だったから、これらの発展を想定した設計が体に盛り込まれなかったのは、当然のことである。
高等動物が眠りの不備に対処してノンレム睡眠を開発したとき、レム睡眠は廃棄されず、再利用の道を歩んだ。生物は、設計図にいったんとり込んだものを簡単に消去できないのである。ありあわせのものはなるべく使わないでおくか、転用するしかない。レム睡眠の場合は、後者が選ばれたわけだ。
この文章もただ読んで行くよりも、見出しから主題がレム睡眠であることに見当をつけて、第1段落と第2段落以下に「定義とその解説」のスキーマ(図式)を当てはめて読む方が分かりやすい。また、第2段落以下の解説についても、前半の「生理学的性質」と後半の「系統発生」に分かれているなと意識して読むと理解が楽である。
しかし、全てに利用できる万能のスキーマがあるわけではなく、その都度適切なスキーマを選択しなくてはならない。その際、同じ主題について自分ならどういう構成で文章を組み立てるだろうかと考えながら読むとより適切なスキーマが得られる。さらに、文章の構成が複雑なときは、簡単なチャートを書いてみる必要がある場合もあるだろう。いずれにせよ、新しい知識は、その構造を把握することによって、それを理解する速度と深さが増すのはまちがいない。(2001.04.30)
英語の文章では文章の中に必ず主語と動詞がある。なかには、無理矢理こじつけたように it や you などを主語に持って来る場合もあるので、主語を省略することが多い日本語と比べると不自然に感じる場合もある。しかしながら、日本語の場合も主語を意識して文を組み立てたほうが良いのではないかと思う。たとえば、次のような文の場合を考えてみよう。
血尿の原因はいろいろありますが、膀胱がん早期発見のためには、血尿が唯一のてがかりといっても過言ではありません。
この文は「血尿の原因はいろいろある」と言う文と「膀胱がん早期発見のためには、血尿が唯一のてがかりといっても過言ではない」という2つの文の重文になっている。しかし、前半の文の主語が「血尿の原因は」であるのにたいし、後半の文では「血尿は」となって主語の意味あいが若干変わっているために戸惑ってしまう。つまり、前半の文の主語から、次の文では血尿の原因について述べるのだろうと期待していると、「血尿が膀胱がんの早期発見のてがかりである」という文になるので期待が裏切られてしまうのだ。しかし、次のように前半の文をかえると、後半で主題が変わることに気がつくので違和感なく読めるのではないだろうか。
血尿の原因はいろいろあるとはいえ、膀胱がんの早期発見のためには血尿が唯一のてがかりといっても過言ではありません。
英語の場合は主語と動詞の位置が文頭にあることが多いので主題を見つけるのが容易である。例えば、"He went to the movie yesterday." という文では「彼が行った」「何処に?」「映画を見に」「いつ?」「昨日」という具合に文が進んで行くので、主題が彼の行動であり、その後に続く部分はその説明であることが分かりやすい。これにくらべ、日本語の文の場合は主語の位置が動くことが多く、省略されることも多いので、主題が掴みづらい文になりやすい。それでも、主語をできるだけ省略せず、前後の文の主語との整合性も保つように書けば、主題の明解な日本文を書くことは可能である。
知的生産を楽しむためには、先ず効率的な学習法、記憶法、発想法を持つことが大切だと考えたので、学習法のカタログを作ってみようと思いこの文章を作成し始めた。しかし、今日、本屋をぶらぶらしていたら、二木紘三著・「図解ビジネスマンのための勉強の技術!」・日本実業出版社を見つけた。これが、まさに、作ろうと思っていたカタログだった。情報の収集、読書、記憶、発想、表現について、1項目見開き2ページで簡潔に網羅的に紹介してある。そういうわけで、学習法については、書く必要がなくなってしまった。
記憶法についての書物は江戸時代からあるそうである。勉強の方法論にたいする興味は時代を越えて普遍的なものかも知れない。しかし、自分の経験を顧みても、勉強する技術についての系統的な訓練を受けたことがない。しかし、この技術こそ、教育機関で重点的に教育されるべきものではなかったのだろうか。もしかして、教育に携わっている先生たちでさえこの技術教育を受けていないとしたら、これから、情報の海の中で仕事をしていかなければならない子どもたちをどう導いていけるのだろうか。
教育論はこれくらいにしておいて、実は、このホームページのこの記事を作成していて、一番の恩恵を受けたのは自分自身だった。特に、読書の速度と理解力がかなり上がったようだ。そうして感じたのは、自分の考えを表現することが、いかに知識の習得力の向上に有益であるかということである。欧米で行われている百科事典を利用した情報収集と、パラグラフライティングによる理論的な文章の書き方の訓練は早急に教育の現場でとりいれるべき課題ではないだろうか。また欧米では、教育の場だけでなく、様々な分野でプレーンイングリッシュニよる、わかりやすい表現がとりいれられている。日本の場合ももっと多くの一般社会の文章、特に公文書に、明解で論理的な表現が使われる必要があるのではないだろうか。(2001.05.04)