知識について

素人が物好きにもコンピュータや論理学に手を出して、誤解と誤りだらけのこんなページを作ってしまったのは何故かと言うと、とにかく自分の思考力を鍛えたいという思いからだった。しかし、思考力を鍛えて一体何をしたかったのだろう。今より10倍のスピードで本を読めたり数学の本を一読するだけで理解できたらすごいとは思うが、だからといって何なのだろうか。そのような優秀な頭脳を与えられたとしても、一生のうちに獲得できる知識の量は求めている量からしたらたいしたものではないだろう。知識が増えると金儲けのチャンスが増えるからだろうか、しかし、金儲けをしたければ知識をたくわえるよりも今日からでも金儲けの仕事を始めたほうが良いような気がする。それでは何のために知識が欲しいのだろうか。

知らなかったことを知るようになるのは楽しいものである。自分が少し賢くなったような気がする。自分が見えるものを周りの人が見えないらしいのを知ると得意な気分になる。滅多にはないが、知識を披露したときに賞讃されたりする。意外とこんなつまらない感情が原動力になっているのかも知れない。

実際、知識の量とその有効性の比をとったら、とてつもなく少ない値になるのではないだろうか。また、「生兵法は怪我の元」というように、生半可な知識はかえって有害な場合もあるのではないだろうか。コンピュータは知的生活を指向するものには魅力的な機械だが、以前日経サイエンスの記事に、企業のパソコン導入は却って生産性を落してしまうというのがあったような記憶がある。自分自身、何でもコンピュータ化しようとしたが、手作業の方が半分の労力で済んだという記憶がある。

このような知識を持つことに対する非合理的な感情は、案外、学校教育に源があるのかも知れない。筆者が数学に固執するのも、数学が苦手だったからだ。すらすら解ける級友を羨望の気持ちで眺めていたこともある。受検の場合はテストの成績がそのまま大学や学部を選ぶ基準になるので知識力や思考力の有効性も高いだろう。しかし、世の中に出て分かったことだが、それは学校の中でだけのことだった。もっとも、インプリンティングのせいか未だにこの不合理な感情を引きずっているのも事実である。

しかしながら、動機がどうであれ学習が適切に行われていれば知識が増え、その有効性も増すことは否定できない。あまりに悟ってしまっては向上心と言うものが無くなってしまうかも知れないのである。結局、動機は不純だがそれによって発生する向上心は評価できるというのが本当の所かも知れない。

したがって、自分の感情がどうあっても、獲得する知識の質こそが大切なのだと言う答はよい答のような気がするが、聖書の「コヘレトの言葉」に「かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」とあるように、一所懸命勉強して得られた知識が百年も前にも知られていた知識でしかないことも多い。頑張っても良質の知識を得られるとは限らないのだ。

また、現代は変化と進歩の時代である。新聞を読むと新しい考え方や、発見や、発明を毎日のように見ることができる。そのため「知識は毎日新しくしなければならない、まごまごしていると置いてきぼりにされてしまう」という脅迫的な観念から抜け出すことができなくなってしまっているような気がする。しかし、人間の体自体が数万年もたいして変化していないのである。社会システムだってそうひどく変化したとも思えない。「新しい知識でなければ価値がない」という考え方は本当に適切なのだろうか。

これに関連して、最近良く聞くのは「効率化」という言葉である。価格破壊の世相を受けて企業はは効率化に余念がない、リストラで人件費を減らし利益率を上げると、同じ努力で効率化した他の企業が価格を下げてくる。効率化の恩恵も2、3年ももたない事が多い。また「スピード化」も叫ばれている。開発効率が向上したため、パソコンなどは商品寿命が3か月だと販売店で説明されたりする。知識の獲得もそれに伴い効率化と高速化を要求されてくる。人間の脳の生理的許容量を越えてしまっているのではないかと思うくらいである。

こういう風に考えていくと、自分の「思考力を強化したい」という思いの中に何か非人間的なものが忍びこんできているような気がするのである。自分の生活を潤すための知識から、自分の心と体を圧迫し駆りたてるための知識への変質である。ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる時間泥棒に時間をだまし取られた人びとの境遇のようなものだ。

お金も知識もそれ自体に力がある。どちらも持てば持つ程より多くのお金や知識を人間に要求するようになるのである。トルストイが晩年の童話で主張したかったことはそう言うことではないのだろうか。子供っぽい感情や強迫観念から知識を遮二無二求めようとする前に、「一体、自分にはどれほどのお金と知識が必要なのだろうか」とちょっと立ち止まって考えることが、豊かな人世を送るために必要なのではないだろうか。

(2005.02.06)