狭い門

キリストは言います

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだすものは少ない。」
マタイによる福音書第 7 章

「狭き門」というのは大学受験のときに良く使われるので有名ですが。本文を読むと意味が違うのが分かります。大学受験は皆が合格したいが合格できない人が多いので狭い門だというのですが、キリストの言う狭い門は、誰も気にかけない門、みすぼらしい門のことです。天の国と言うのは見掛はみすぼらしいのでしょう。しかし、この言葉もたとえです。広い門というのが実際は何を表しているのか、狭い門は何の象徴なのか全く説明がありません。

しかしながら、この言葉を読むと、マザーテレサのことを思いだします。マザーに会った人は一様にマザーの人格のすばらしさに感銘をうけます。だからといってマザーと同じ生活に飛びこむのはマザーの修道会のシスターたちだけです。

おそらく愛情深い人は、そういう人格を獲得するための犠牲が大きいのではないでしょうか。愛情深さを深く身につけたキリストは、それゆえに十字架にはりつけられると言う犠牲を払ってしまったのではないでしょうか。酷薄な人はその人格のゆえに孤独と言う代償を払う必要がありますが、愛情深い人は、情け深さのために自己犠牲と言う代償を払わなくてはならないのかもしれません。どっちに転んでも辛さからは逃げられないようです。キリストが言った、

自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

という言葉はそういう事情をあらわしているのかもしれません。

十字架にはりつけにされたキリスト像はそれが人形であってもむごたらしいものです。しかし、それは人間の傲慢の恐ろしさと共に、身を捨てて人間を愛そうとした人の意志を思いださせます。それは、人間の醜さと崇高さを同時に表す象徴のように見えます。多かれ少なかれ、私たちはこのような二重性の中で喜びと共に苦しみも抱えて生きていく外はないように思えます。