僕の大好きな話のひとつに、キリストの足を涙で洗った女の人の話があります。ルカによる福音書の第 7 章に載っている話です。少し長いですが引用してみましょう。
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後からイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
聖書にはこの女の人がどんな罪を犯していたのか、また、イエスとどのような知合だったのかなど細かいことは一切書かれていません。しかし、上の簡潔な描写を読むだけで、この女の人の不幸な人生と自分でも自分のことをどうにもできない辛さが痛い程伝わってきます。これに対し良心に疚しいことのないこの家の主人は、この女の人に対する嫌悪感とその女の人が触れるがままにしているキリストへの非難の気持ちをあらわにします。そこでキリストはこの主人に話しかけます。引用してみましょう。
そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消にしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消にしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
キリストは、この女の人はキリストをつまりキリストの伝える神をこれほどまでに愛したのだから、この人の犯した多くの罪は赦されたのだと言います。「多く愛する者は多くを赦される」とあっさり断言するキリストの言葉は、絶望していたこの女の人には大きな慰めとなり、自分自身の生活と自分自身に満足して無情になっていた者には、心を不安でゆさぶる刺となって突き刺さってきます。
聖書のこの箇所をあるときはこの女の人の立場にたって、あるときはこの家の主人の立場で読むとき、僕はいつも心を動かされずにはいられません。キリスト教は皆が罪人であるかのように言うから嫌いだと言う人がいます。しかし、僕自身の経験の中でもどうしようもない罪悪感や自己嫌悪を感じずにはいられない時があります。そんなときこの女の人に示したキリストのあわれみを救いに感じないときはありませんでした。また、自分が結構いい人間なのではないかと傲りたかぶっているとき、シモンに向けられたキリストの言葉が胸に突き刺さってきて、自分がどれほど周囲の人の心に共感する瑞々しい心を持っているだろうかと反省させられます。
僕は神を見たことはありませんし、神の声を聞いたこともありません。また、神の存在を証明することも否定することもできません。しかし、キリストとキリストにであった人びととの物語を読むとき、いつも心が突き動かされるのです。
蛇足ですが、この時代の宴会では客は床または、長椅子の上に横になってクッションに左肘をつき、右手で料理を食べていたようです。ですから、この女の人もキリストの後から近づいて足を涙で濡らしたり、髪の毛で拭いたりできました。