1988/12/4 第三回青島太平洋マラソン20kmに出場。思いもかけず、1時間43分04秒の自己最高がでる。
前半10km 53分05秒。後半10km 49分59秒。
スタートから5kmはペースがつかめず、セーブしながら走る。
体が軽く、無理なく、余裕を持ってゴールすることが出来た。COSMOの高野さん、魏さんにも会えた。
青島コースは1km毎の表示があって親切!!

1993/12/12 フルの部に参加。29km地点で30kmの関門にかかり、収容車に乗る。
やっぱり直前の不摂生がたたって、思うように走れず、全然足が動かなかった。
それにしても単調なコース、少ない応援。あまり薦められる大会ではないなあ。

1995/12/10 第9回。フルの部出場。
ようやく完走! 4時間55分07秒 やった!
前回は30km手前で関門にかかり競技中止。
今回は何としてもその関門を通過しようと思った。その関門は通過したものの、34.5kmの関門もギリギリ。
後は走ったり歩いたり・・・。執念で完走!!
完走の感激にも浸れぬくらい、疲労困憊。
来年は37.5km以降も、国道を走れるように・・・!!

1996/12/15 第10回青島太平洋マラソン、フル完走。
正式タイム、4時間51分38秒。
それより、大会運営の方で疲れた。
寒くもない絶好のマラソン日和。今までの練習不足を考え、ゆっくりとしたペースで走り出す。
結果は、ハーフ地点までは走り通すが、昨年同様後半は走り歩き。それでも昨年よりはバテは少なかった。
  ##妹も今年は参加。5km手前で先にゆくが、27kmで追いつかれ、しばらく併走の後置いていかれる。結局は妹の方が先にゴール。##

1997/12/14 第11回青島太平洋マラソン、フルマラソン出場。
正式タイム なし。手元のタイム、5時間12分41秒。
何とかゴールまでは辿り着いたものの、ゴールの制限時間5時間をオーバーしたため、正式なゴールとは認めてもらえず。
第3回大会でご一緒した高野さんと再会。3Km地点であっという間に追い越されてしまった。
それでも、26Km地点までは、快調に走っていたが、それ以後、走ったり歩いたりを繰り返す。
34.5Kmの関門が2分前、37.5Kmの関門は1分前というすれすれのタイムで通過する。
昨年は、34.5Km地点で「あと7Km」と思ったのだが、今年は「まだ8Km」と感じる。この違いは大きかった。
残り4Km地点からは、30代の人と一緒に歩く。ゴールの関門まで30分あったが、どうにも走ることができない。
普通なら、4Kmを30分なんてなんてことないのに・・・・。今年一年間、いかに走らなかったかの証明だ。
競技場に入ってからは、走り終わった人たちの拍手におされて、二人でゆっくりと走る。「最終ランナーがゴールします」のアナウンスに、何故か自分で感動してしまったた。(写真は16Km地点。ナンバーカード14809が私)


青島太平洋マラソンについて


 昭和62年11月開催の第1回宮崎太平洋マラソンと、昭和63年4月開催の第1回青島・海さち山さちマラソン大会が統合され、昭和63年12月に名称を青島太平洋マラソンとして第2回目が開催された。
 1回から3回目では5km、10km、20kmの種目で、青島地区をスタートゴールとしたが、第4大会から県陸上競技場をスタートゴールとして開催。20kmのかわりにフルマラソンが種目として加わる。
 フルマラソンのコースは、平坦で走りやすいとされているが、コースのほとんどをバイパスや有料道路を走るため、単調できつく感じられる。折り返してからは一瞬目標をなくしてしまい、走る気力が萎えてしまうのは私だけだろうか。
 制限時間は5時間だが、途中の関門規制が厳しく、完走率はけして高くない。できるなら、市街地中心部を走れるようにコースが設定されると、応援を力にできて完走率も上がるかもしれないのだが。