1945年日本の敗戦で朝鮮半島は日本の統治から解放されたが、米ソの冷戦の影響を受け、1950年に朝鮮戦争が勃発した。
1953年に休戦協定が結ばれたが、北と南に分断された。その象徴が板門店(バンムンジョム)である。
 ソウルから北へ62キロ、北朝鮮の開城(ケソン)から10キロの北緯37度に朝鮮半島を分断する軍事境界線が存在し、
軍事境界線の南北2キロずつが非武装地(DMZ)で、南北の軍事力が対峙している。板門店は双方の休戦会談を
行う場所で、手前が南側で、青い建物が会議場、後方は北朝鮮側の建物だ。
 板門店の観光ツアーは特定の旅行業者しか許可されておらず、韓国人は参加できない。パスポート持参で韓国兵士が何度も
検問する。ジーンズ、ミニスカート、ノースリーブや迷彩服は着用禁止。観光前の飲酒も禁止だ。写真撮影の禁止場所があり、
ガイドの指示に従うようくどいほど注意がある。停戦中といえ敵とと対峙する緊迫感の中の観光である。
 ツアー料金は95,000ウォン(日本円で12,000円)かなりの高額で、小さい土産物屋もあるなど商売上手ともいえる。
左=北朝鮮側の監視塔。屋上から監視カメラが南側を監視している。「絶対に指で指したり、
   手を振ったりしないでください」とガイドが注意する。
中央=会議場の中央を軍事境界線が通っている(旗の位置)。南北唯一の接点で会談のときは
   境界線を挟んで南北の代表がテーブルに座る。
右=会議場外の境界線では北朝鮮の兵士が警備に立っている。


南側の会議場の外では韓国兵士が、建物から半分だけ体を出して
北側を監視する。構えはいつでも飛び出せるようにコテンドウの守りの
姿勢。目の動きを悟られないようにサングラスをかけている。

韓国は2年間の兵役がある。就職する前に兵役を済ませたほうが
有利だという。人気俳優たちは若いうちに稼ぐだけ稼いでから
兵役に就くという。板門店守備の任務はエリートが当たるというが、
人里離れてており、冬は氷点下10度の極寒の地で精神的な
強さも求められているという。

       同行のS氏の特ダネ写真



北側の建物に女性二人が現れたのを望遠でキャッチ。

左側の女性を拡大すると
ロングコートにブーツ、
毛皮の襟巻き。上流社会の
観光客のようだ。


さらに拡大すると手に持っていたのはデジタルカメラで、
南側を写していた。

休戦協定か成立した直後は軍事境界線は
形式的なもので板門店の中では
南北の兵士が行き来していた。
沙川江(サチヨン川)
に架かる橋で捕虜交換が行われ
「帰らざる橋」と呼ばれている。

「帰らざる橋」の近くに大きな
ポプラの木があり南側の高台の
監視所(後方)から見通しが
悪いため、1976年8月、切り倒そうと
したところ北側が抗議、
作業を続行したため、乱闘となり
国連兵士2人が殴り殺された。
「ポプラ木事件」である。
それ以来コンクリートの
境界線をはさんで南北が
対峙するようになった。
ポプラ木のあった地点に
記念碑がある。


 1984年11月23日、板門店観光ツアーに
訪れていたソ連人大学生が、軍事境界線を
越えて南に亡命しようとした。この大学生を
追って北朝鮮兵士が軍事境界線を越えたため、
南側の広場で銃撃戦となり、韓国君兵士1名と
北朝鮮側兵士3人が死亡した。
ちょっとしたきっかけでトラブルが発生するので、
細心の注意と神経を尖らせており、緊張感が
みなぎっている。

朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線に沿って流れるのが
臨津江(リムジン川)。氷結して白く輝き、対岸に北側の山が見える。
川の流れに託して南北分断の悲しみを歌った「リムジン川」が
1960年代に在日朝鮮人の間で歌われていた。
日本語訳をつけ、フォーク・クルセーダスがレーコードに吹き込んだが、発売直前になって、販売中止になった。
北朝鮮の歌が日本で歌われることに韓国側が抗議したものらしい。
1995年になってやっとCDで販売されるようになった。


板門店から見た北朝鮮側。鉄塔は大きな国旗を掲げためのもの。
アパートなどの町並みが見えるが、
ガイドによると「人が住んでない宣伝の街」だそうだ.。
北側もこんなよい生活をしていると宣伝するための無人の街だという。
 
同じ民族が南と北に分断され別れた家族や親戚は50年経った今でも
会うことも連絡を取ることもできない。民族の悲劇である。
祖国の統一が南北双方の悲願であるが、複雑な国際関係から
現実にはなかなか進まず、板門店での対峙が続いている。